はじめに
最近、SNSで、ある著名人の過去の発言が改めて話題になりました。
「日本が中国に乗っ取られても良い。私は中国の味方です。」
このような言葉とともに、多くの投稿が拡散されました。
実際に発言内容を確認すると、「私は中国の味方です」という趣旨の発言は存在しました。しかし、「日本が中国に乗っ取られても良い」という発言は確認できませんでした。
私は、その発言そのものには違和感を覚えます。しかし、それ以上に気になったことがありました。
「敵だと思った相手なら、多少言葉を足して批判しても構わない」という空気です。
今回考えたいのは、一人の著名人の発言ではありません。
民主主義社会に生きる私たち一人ひとりが、情報とどのように向き合うべきかという問題です。
問題は「誰が言ったか」ではなく、「事実かどうか」
今回の出来事は、右派と左派の対立の一場面として受け止めることもできます。
しかし、私が本当に考えたいのは、そこではありません。
問題は、「敵だから」という理由で、事実を少しだけ変えて伝えることが許されるのか、ということです。
もちろん、政治的立場が違えば、相手を厳しく批判することはあるでしょう。
私自身も、賛同できない考え方に対しては率直に意見を述べます。
しかし、批判することと、事実を変えてしまうことは全く別問題です。
民主主義社会では、相手が誰であっても、批判は事実に基づかなければなりません。
それは相手を守るためではありません。
私たち自身が、「真実を尊重する社会」を守るためです。
人はなぜ「敵には厳しく、味方には甘く」なるのか
人間には、自分と同じ立場の人を信頼し、反対する立場の人には厳しく接してしまう傾向があります。
心理学では、このような傾向は「内集団びいき」や「確証バイアス」などと説明されることがあります。
自分の考えに合う情報は受け入れやすく、反対の情報は疑いやすい。
味方の誤りは見逃し、敵の誤りは大きく感じる。
これは決して特定の政治思想だけに見られるものではありません。
右派にも起こります。
左派にも起こります。
だからこそ私たちは、自分自身の思考にも注意を払わなければなりません。
「相手だから間違っている」のではなく、「事実はどうなのか」を確認する姿勢が求められます。
民主主義は「正しい思想」ではなく、「正しい手続き」で守られる
私は以前、「法の支配」についての記事を書きました。
法の支配とは、「権力者が正しいと思うこと」を実現する仕組みではありません。
証拠を確認し、公正な手続きを経て判断するというルールそのものを守る考え方です。
裁判では、
「この人は悪そうだから。」
という理由だけで有罪にはできません。
証拠が必要です。
手続きが必要です。
民主主義における言論も同じではないでしょうか。
「この人は反日だから。」
「この人は『日本ファースト』だから。」
というレッテルだけで相手を判断するのではなく、
実際に何を発言したのか。
どのような文脈だったのか。
元の情報はどうなっているのか。
その確認を積み重ねることが、民主主義における「適正手続き」と言えるのではないでしょうか。
民主主義は、「正しい思想」が社会を支える制度ではありません。
「事実を確認し、公正な手続きを踏む」という姿勢によって支えられる制度なのです。
NS時代だからこそ、一人ひとりの責任が大きくなる
SNSでは、短い言葉ほど拡散されます。
その結果、
・文脈を切り取る。
・刺激的な見出しを付ける。
・少しだけ誇張する。
・都合の悪い部分を省略する。
こうした情報発信が、大きな影響力を持つようになりました。
しかし、その「少しだけ」の積み重ねが、社会全体の信頼を少しずつ壊していきます。
情報を受け取る私たちも、
「本当にその発言だったのだろうか。」
「全文を確認しただろうか。」
「元の情報を読んだだろうか。」
と、一度立ち止まる習慣を持つことが大切です。
情報社会において民主主義を支えるのは、専門家だけではありません。
私たち一人ひとりの情報リテラシーなのです。
おわりに
私は、今回話題となった人物の政治的主張に賛同しているわけではありません。
しかし、それと、「存在しない発言まで付け加えて批判すること」とは別問題です。
もし今日、「敵だから少しくらい事実を変えても構わない」と考えるなら、そのやり方は明日、自分自身に向けられるかもしれません。
民主主義とは、「自分の味方だけが正しいことを言う社会」ではありません。
立場の違いを超えて、誰に対しても事実を尊重する社会です。
だから私は、最後に読者の皆さんへ、一つだけ問い掛けたいと思います。
もし、あなた自身の発言が文脈を無視して切り取られ、存在しない言葉まで付け加えられて批判されたとしたら、どう感じるでしょうか。
「敵だから仕方がない」と受け入れられるでしょうか。
おそらく、多くの人はそうは思わないはずです。
だからこそ、私たちは、自分が批判する側に立ったときほど、自らを律しなければなりません。
自由民主主義を守るために本当に必要なのは、自分と同じ思想の人を増やすことではありません。
誰に対しても事実を尊重し、公正な手続きを重んじる文化を育てること。
それこそが、「法の支配」を支え、自由民主主義を未来へつないでいく、最も確かな道なのではないでしょうか。
