広島・長崎から考える「日本の安全保障」― 核兵器の恐ろしさと核抑止の現実を、どう両立して考えるか

新常識
2026年6月日米共同声明延長抑止対話

毎年8月になると、私たちは広島と長崎に思いを寄せます。
8月6日は広島原爆の日、8月9日は長崎原爆の日です。
広島と長崎で何が起きたのか。
原子爆弾によって一瞬にして都市が破壊され、数多くの尊い命が奪われました。そして、かろうじて生き残った被爆者の方々も、その後長く苦しみ続けることになりました。
日本は世界で唯一、戦争で原子爆弾による攻撃を受けた国です。
だからこそ、日本が核兵器の非人道性を訴え、「核兵器のない世界」を目指すことには、大きな意味があります。
2026年5月のNPT(核兵器の不拡散に関する条約)運用検討会議でも、日本政府は「唯一の戦争被爆国」として、核軍縮・核不拡散体制の維持・強化に向けた外交努力を行ったとしています。

しかし、私はここで、あえて一つの問いを投げかけたいと思います。
広島と長崎の原爆の日を、私たちは「核兵器の恐ろしさを思い出す日」だけにしてしまってよいのでしょうか。
もちろん、核兵器の非人道性を語ることは重要です。
しかし、それだけでは、現在の日本の安全保障を考えたことにはなりません。
広島と長崎の歴史を本当に教訓として生かすのであれば、そこからさらに一歩進んで、
「では、現在の日本を核兵器による脅威から、どう守るのか」
という問題まで考える必要があるのではないでしょうか。
私は、
広島・長崎の歴史を真剣に受け止めることと、日本の安全保障を現実的に考えることは、決して対立しない
と考えます。

まず、歴史は歴史として正確に語る

原爆投下については、まず歴史的事実を事実として語る必要があります。
1945年8月6日、米国は広島に原子爆弾を投下しました。
そして8月9日、長崎にも原子爆弾を投下しました。
これは歴史的事実です。
したがって、
「誰が投下したのか」
という点を曖昧にする必要はありません。
もちろん、広島・長崎の平和祈念式典は、米国を糾弾するための政治的な場ではありません。
亡くなられた方々を慰霊し、被爆の実相を後世に伝え、二度と核兵器による惨禍を繰り返さないことを願う場です。
だからこそ、
「投下した主体を明確にすること」と「現在の米国を政治的に糾弾すること」は、別の問題です。
歴史を正確に語ることは、誰かを憎み続けることではありません。
むしろ、事実を曖昧にせず、事実を事実として認識した上で、現在と未来を考えるために必要なことです。

しかし、「核兵器は恐ろしい」だけでは安全保障政策にならない

広島・長崎の惨状を見れば、核兵器が恐ろしい兵器であることは明らかです。
一瞬にして都市を破壊し、膨大な数の人命を奪い、その後も放射線による被害を含め、長期にわたって人々を苦しめる。
だからこそ、
「核兵器を二度と使わせてはならない」
という願いには、強い説得力があります。
しかし、国家の安全保障を考える場合、ここで思考を止めることはできません。
なぜなら、現在も世界には核兵器が存在しているからです。
日本が核兵器を保有していないからといって、世界から核兵器が消えるわけではありません。
核兵器を保有する国が存在する以上、日本政府には、
「核兵器が存在する世界で、日本国民をどう守るのか」
という責任があります。

ここから先は、感情だけでは考えることができません。

「核抑止」という現実から目を背けてはいけない

核兵器について考えるとき、どうしても「核兵器=絶対悪」という倫理的な側面が前面に出ます。
それ自体は理解できます。
しかし、安全保障政策を考えるのであれば、もう一つの現実も見なければなりません。
それが、核抑止です。
核抑止とは、簡単に言えば、
「相手が核攻撃をすれば、自国も耐え難い損害を受ける」
と相手に認識させることによって、そもそも核攻撃を思いとどまらせるという考え方です。
もちろん、核抑止が絶対に機能するという保証はありません。
誤算もあります。
誤認もあります。
指導者の判断を誤る可能性もあります。
偶発的な事故や、危機がエスカレートする危険もあります。
したがって、核抑止を万能視することは危険です。
しかし同時に、
「核兵器は恐ろしいから、核抑止という現実について考えない」
ということも許されません。

安全保障とは、私たちが望む世界だけを前提にするものではなく、望ましくない現実の中で、国民をどう守るかを考える営みだからです。

日本は、すでに「核抑止」と無関係ではない

ここで、日本の安全保障を考える上で極めて重要な事実があります。
それは、
日本は核兵器を保有していませんが、日本の安全保障は米国の核抑止と無関係ではない
ということです。
2026年6月8日から9日にかけて、東京で日米拡大抑止対話(EDD)が開催されました。
EDDは、日米安全保障・防衛協力の一環として、地域の安全保障環境、日米同盟の防衛態勢、核・ミサイル防衛政策、軍備管理、リスク低減などを含む戦略的抑止について協議する正式な対話の枠組みで、2010年に設立され、定期的に開催されています。
そして、2026年6月の日米共同声明で、米国は極めて明確な表現を使いました。
「核兵器を含む、米国のあらゆる防衛能力を用いて日本を防衛する」
とのコミットメントを改めて表明したのです。
ここは非常に重要です。
米国は単に「日本を守る」と言っているのではありません。
“including nuclear”――「核兵器を含む」
と明記しています。
つまり現在の日米同盟における日本の安全保障には、通常戦力による抑止だけではなく、米国の核戦力による「拡大抑止」も明確に組み込まれているのです。
日本は核兵器を持っていません。
しかし、日本はすでに米国の核抑止力を含む安全保障体制の中にあります。
だからこそ、その仕組みがどのように機能し、どのような条件で信頼性を持ち、どこに限界があるのかを、私たちは考えなければなりません。

だからといって「日本も核武装すればよい」ではない

しかし、ここで「では、日本も核兵器を持てばよい」という最も強硬な選択肢に、いきなり飛びついてはいけません。
核兵器に抑止力がある。
だから、
「では、日本も核兵器を持てばよい」
という単純な話ではありません。
日本が核兵器を保有することになれば、周辺国との軍事的緊張がさらに高まる可能性があります。
中国、ロシア、北朝鮮などとの関係にも重大な影響を与えるでしょう。
日米同盟にも影響するでしょう。
核不拡散体制にも大きな影響を与えるでしょう。
そして何より、核兵器を保有するということは、単に核兵器を作れば済むという話ではありません。
安全に保管し、確実な指揮統制を行い、誤使用や事故を防ぎ、相手国からの先制攻撃に対しても生き残れる能力を維持しなければなりません。
つまり、
「核を持てば安全になる」というほど、国家安全保障は単純ではないのです。

「核武装か、無防備か」という二択ではない

私は、日本の安全保障を考えるときに最も避けなければならないのは、
「核武装するか、無防備でいるか」
という二択にしてしまうことだと思います。
日本には、もっと多層的な安全保障政策があります。
第一に、通常戦力を強化すること。
第二に、ミサイル防衛能力を強化すること。
第三に、日米同盟を強化すること。
第四に、米国の拡大抑止の信頼性を高めること。
第五に、中国・ロシア・北朝鮮などの核・ミサイル戦力を正確に把握すること。
第六に、核軍縮・核不拡散外交を継続すること。
そして第七に、
日本自身の核抑止能力についても、最初からタブーとして封印するのではなく、安全保障上の選択肢として研究・検討すること。
私は、このような多層的な安全保障政策こそ、現実的なのではないかと思います。

「検討しない」のではなく、「検討した上で選ばない」

ここは特に重要なところです。
「日本の核保有について検討する」と言うと、すぐに「核武装を主張している」と受け取る人がいます。
しかし、
検討することと、実行することは全く違います。
国家の安全保障を考えるのであれば、さまざまな選択肢について研究し、そのメリットとデメリット、リスクとコストを分析することは当然必要です。
そして、検討した結果、
「現時点では、日本は核兵器を保有しない」
という結論を選ぶことも、当然あり得ます。
重要なのは、
「検討しないから選ばない」のではなく、「検討した上で、あえて選ばない」
ということです。
さらに言えば、そこで思考を止める必要もありません。
日本を取り巻く安全保障環境が将来どのように変化するのかは、誰にも分かりません。
だからこそ、現在の政策判断として核保有を選ばないとしても、将来の国際環境の変化によっては、その選択肢を改めて検討できるよう、最初から「絶対にあり得ない選択肢」として封印してしまわないことも、安全保障政策の一つの在り方ではないでしょうか。
つまり、
「今は選ばない。しかし、将来にわたって選択肢そのものを封印するわけでもない。」
ということです。
これは核武装を推進するという意味ではありません。
むしろ、将来の安全保障環境が大きく変化した場合にも、日本が国民の生命と安全を守るために、必要な政策判断を遅滞なく行えるようにしておくという、国家としての危機管理の問題です。
その意味では、将来の選択肢を維持するために必要となる技術、制度、外交・安全保障上の条件などについて、平時から研究し、政策的な検討を続けておくことには意味があります。
国家の安全保障において重要なのは、現在の政策を固定化することではなく、環境の変化に応じて政策を見直すことのできる「選択可能性」を維持しておくことではないでしょうか。

日本は「核廃絶」を願いながら、「核抑止」に依存している

ここには、日本の安全保障が抱える一つの大きな緊張関係があります。
日本は、
「核兵器のない世界」を目指しています。
しかし同時に、
米国の核兵器を含む拡大抑止によって自国の安全を確保しています。
一見すると、矛盾しているように見えるかもしれません。
しかし、私は必ずしもそうではないと思います。
むしろ、
「核兵器をなくしたい」という理想と、
「核兵器が存在する現在の世界で国民を守らなければならない」という現実を、
同時に背負っている

のが日本なのです。
2026年6月の日米拡大抑止対話でも、日本は核軍拡競争の回避、核リスクの低減、透明性の向上などに向けた米国の多国間の戦略的安定性協議を強く支持し、中国・ロシアとの軍備管理対話も含めた取り組みを促しています。
つまり日本は、
核抑止を現実として受け入れながら、核軍縮・核不拡散を追求する
という、一見すると難しい二つの課題を同時に背負っている
のです。
しかし、それは矛盾というより、核兵器が存在する世界における日本の立場そのものだと考えるべきでしょう。
理想だけでは国民を守れません。
しかし、現実だけを追求して核兵器の恐ろしさを忘れてしまえば、広島・長崎の歴史から何も学んでいないことになります。
だから必要なのは、どちらか一方を選ぶことではありません。
理想を失わず、現実からも目を背けないことです。

広島・長崎から学ぶべきことは、「核兵器は怖い」だけではない

広島・長崎の原爆の日に、私たちが考えるべきことは、
「核兵器は恐ろしい」
という一点だけではないと思います。
むしろ、
「なぜ、核兵器が使われたのか」
「なぜ、その後、核兵器は実戦で使用されていないのか」
「核兵器が存在する世界で、日本はどのように安全を確保していくのか」
というところまで考えるべき
ではないでしょうか。
もちろん、1945年の原爆投下をめぐる歴史的評価には、さまざまな議論があります。
しかし、歴史の評価と、現在の安全保障政策は別の問題です。
1945年の出来事を正確に記憶することと、2026年の日本を守る方法を考えることは、両立します。
むしろ、両立させなければならないのです。

「感情」ではなく「現実」を見る。しかし、「現実」だけでもいけない

ここでいう「感情論ではなく現実論」という言葉は、広島・長崎への哀悼や、核兵器への恐怖を否定するという意味ではありません。
広島・長崎の犠牲者への哀悼。
核兵器による惨禍を二度と繰り返してはならないという願い。
それは、私たちが大切にすべき感情です。
しかし、国家の安全保障政策を決める場面では、感情だけに政策判断を委ねることはできません。
同時に、
「核抑止が重要なのだから、核兵器を増やせばよい」
というように、現実論を単純化することも危険です。
必要なのは、
感情を否定することでも、感情に支配されることでもなく、感情を大切にしながら、冷静に現実を分析することです。
そして、国家安全保障とは、戦争をしたい人が考えるものではありません。
戦争を避け、戦争になった場合にも国民の生命と国家の存立を守るために考えるものです。
だからこそ、戦争を避けたいと願う人こそ、安全保障の現実から目を背けてはいけないのだと思います。

おわりに―歴史を忘れず、現実からも逃げない

広島・長崎の原爆の日に、私たちが胸に刻むべきことがあります。
それは、
歴史は歴史として正確に語る。
核兵器の非人道性は、非人道性として直視する。
核抑止が現実の安全保障に果たしている役割も認める。
そして、
日本国民を守るために、核抑止を含むあらゆる安全保障手段を冷静に検討する。
この四つは、決して矛盾しません。

原爆投下の歴史的事実を語ることは、反米ではありません。
核兵器の非人道性を語ることは、安全保障を否定することでもありません。
核抑止の現実を認めることは、核兵器の使用を肯定することでもありません。
そして、日本の核保有について研究・検討することは、直ちに核武装を意味するものでもありません。
国家安全保障とは、そんな単純な三段論法で決められるものではないからです。
大切なのは、
「検討しない」のではなく、「検討した上で選ばない」こと。
そして、
「今は選ばない」と決めたとしても、将来の安全保障環境の変化に対応するための「選択可能性」まで自ら封印してしまわないこと。
これもまた、国家の安全保障を考える上で重要な視点ではないでしょうか。

広島と長崎の歴史を忘れない。
核兵器の恐ろしさを忘れない。
しかし、核兵器が存在する現実からも逃げない。
そして、
「二度とあの惨禍を繰り返さないために、では現在の日本をどう守るのか」
という問いまで引き受ける。

私は、それこそが、広島・長崎の歴史を未来への教訓として生かすということではないかと思います。
理想を語ることは大切です。
しかし、国家には現実の国民を守る責任があります。
だからこそ私は、
「歴史を忘れず、核兵器の恐ろしさを忘れず、しかし現実からも逃げない」
という姿勢で、日本の安全保障を考えていきたいと思います。
そして、平和を願うことと、安全保障を現実的に考えることは、決して矛盾しないのです。

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