「日本を尊敬しているから歓迎する」だけでいいのか――高知の「人材1000人」から考える外国人政策

先日、興味深い新聞記事を目にしました。
見出しは、
「高知に人材1000人を!」
というものでした。
記事は、高知県日高村にある「高知バングラデシュ友好協会」の植田朋広会長を紹介したものです。
記事によれば、植田氏は日高村出身で、日本大学を経てイタリアに留学。その後、東京で就職し、2008年には知人から紹介されたベトナムの靴工場の管理職となり、さらに10年後にはバングラデシュの靴工場へ赴任したとのことです。
バングラデシュでは、若者たちから「日本は大事ですか」と尋ねると、「もちろん」と答えたという経験も紹介されています。
現在は、これまでの経験や人脈を生かして、日本の靴販売会社などと現地の製造現場を結び付けているそうです。
そして記事の最後で、
「バングラデシュには働き盛りの若者が多いが、雇用が足りていない。そして日本をリスペクトしている」
と述べ、高知に1000人のバングラデシュ人材を受け入れるという目標を語っています。
すでに4人を高知市の龍馬学園への留学につなげたことも紹介されています。
私は、この記事を読んで、一つのことを考えました。
これは、バングラデシュ人を受け入れることの是非だけを論じる問題ではないのではないか。
むしろ、
「外国人材を受け入れる」ということを、私たちはどのような政策として考えるべきなのか。
という問題です。

まず、この記事を特定個人への批判として読まないでほしい

最初に、はっきりさせておきたいことがあります。
私は、この記事に登場する植田氏個人を批判する意図はありません。
まして、バングラデシュとの交流を進めようとすることや、日本とバングラデシュの人材を結び付けようとする活動そのものを否定するつもりもありません。
海外で働き、現地の人々と交流し、そこで築いた経験や人脈を日本との交流に生かす。
そうした民間の活動には、大きな意義があるでしょう。
また、
バングラデシュには働きたい若者がいる。
一方、日本には人手不足に悩む地域がある。
という問題意識も理解できます。
実際、高知県自身も、県内の人手不足が深刻化する中で外国人材の受入れ・定着を進めています。県によれば、2024年10月末時点の県内外国人労働者数は5,293人、外国人を雇用する事業所数は1,216事業所で、いずれも過去最多でした。
高知県はまた、人口減少を県政における最重要課題と位置付けています。
したがって、
「海外に働きたい若者がいて、日本に人手不足があるなら、両者を結び付ければよい」
という発想が出てくること自体は、決して不思議ではありません。
問題は、その先です。

「人材交流」と「外国人政策」は同じではない

例えば、個人や企業、あるいは民間団体が海外の人材と日本の企業を結び付ける。
これは、人材交流として考えることができます。
また、外国人の短期滞在者を自宅にホームステイさせる、といった活動もあるでしょう。
こうした活動であれば、もちろん一定の責任は伴いますが、基本的には、個人の善意、熱意、そして責任感によって支えることのできる領域です。
しかし、話の規模が変われば、問題の性質も変わります。
例えば、
人口減少が進む地方の一地域に、外国人労働者を1000人規模で受け入れる。
となれば、もはや一個人の善意や熱意だけで対処できる問題ではありません。
1000人の人が来れば、その人たちは仕事だけをするわけではありません。
住居が必要になります。
行政手続も必要になります。
病気になれば医療機関を利用します。
家族が来れば、子どもの教育も問題になります。
地域の中で買い物をし、道路を利用し、公共交通機関を使い、地域社会の一員として生活することになります。
そして当然のことながら、日本に住む以上、日本の法律や制度の適用を受けます。
つまり、
「外国人材を1000人連れてくる」ことと、「1000人が日本社会で生活できる仕組みをつくる」ことは、同じではありません。
しかも、人口減少が進んでいる地域であれば、1000人という規模は、その地域社会の人口構成、労働市場、住宅事情、学校、医療、行政サービス、地域コミュニティなどに、相応の変化をもたらす可能性があります。
それは、単なる「人手不足の穴埋め」ではありません。
地域社会そのもののあり方に関わる問題です。
だからこそ、私は「善意」を否定するつもりはありません。
むしろ、外国人との交流や人材交流を進めようとする善意や熱意は、大切な原動力になり得ると思います。
しかし、
善意であることと、その計画が社会的に十分な準備を伴っていることは、別の問題です。
善意だからといって、何をしてもよいわけではありません。
熱意があるからといって、慎重な検討を省いてよいわけでもありません。
そして、責任感のある個人であれば、地域社会全体に及ぶ影響まで一人で背負える、というものでもありません。
規模が大きくなればなるほど、個人の善意に頼るのではなく、組織的・制度的な検討と準備が必要になります。
これは、外国人を受け入れることそのものを否定する話ではありません。
大きな規模で社会を変える可能性のある政策だからこそ、十分な準備をしてから進めるべきだ、という話です。
それを怠れば、結果として、受け入れる外国人に対しても、地域住民に対しても、社会に対して無責任なことになりかねません。

「日本をリスペクトしている」は、政策判断の一材料にはなる

記事の中で私が特に気になったのは、
「日本をリスペクトしている」
という部分です。
もちろん、日本に好意を持ち、日本で働きたい、日本社会に貢献したいと考えている人がいることは、受入れを考えるうえでプラスの材料になり得ます。
それを否定する必要はありません。
しかし、それはあくまで一つの材料です。
なぜなら、
 日本が好きであること
と、
 日本で働くために必要な能力を持っていること
は別の問題だからです。
さらに、
 日本語を使って生活できること
 日本の法律を守ること
 日本の制度を理解すること
 職場のルールを守ること
 地域社会の中で生活していくこと
も、それぞれ別の問題です。
「日本を尊敬している」という気持ちは、その人の意欲や日本への関心を知るうえで意味があるでしょう。
しかし、それをもって、
「だから1000人受け入れましょう」
という政策判断まで一気に進めてしまうなら、そこには論理の飛躍があります。
好感と政策上の適格性は、分けて考えなければなりません。

しかし、「治安が心配だから反対」だけでも政策にはならない

今回の話をめぐっては、SNSなどで、バングラデシュの治安や過去のテロ事件などを挙げ、
「そんな国から大量に受け入れて大丈夫なのか」
と懸念する意見も出ています。
こうした懸念を、感情的に片付けるべきではないと思います。
外国人材を一定規模で受け入れるのであれば、治安、安全、地域社会への影響を検討することは当然です。
ただし、ここでも注意しなければなりません。
例えば、
バングラデシュで過去にテロ事件が起きた。
という事実と、
バングラデシュ人だから危険である。
という判断は、同じではありません。
国の治安情勢を把握することと、そこから個々の外国人の危険性を一括して判断することは、別問題です。
必要なのは、国籍による一括評価ではなく、
入国・在留の審査、在留中の法令遵守、適正な雇用管理、犯罪等が発生した場合の適切な法執行
といった制度です。
つまり、
「日本を尊敬しているから歓迎する」だけでもない。
「治安が心配だから反対する」だけでもない。
その間に、政策として考えるべき領域があります。

では、「1000人」という数字は何を意味するのか

ここで、私が最も気になるのは、
なぜ1000人なのか。
ということです。
もちろん、今回の新聞記事だけから、植田氏が1000人という数字をどのような根拠で設定したのかを推測することはできません。
したがって、ここで植田氏の考えを批判するつもりはありません。
しかし、政策論として「1000人」という数字を考えるなら、その根拠は問われなければならないでしょう。
例えば、
高知県内で何人の人手が不足しているのか
どの業種で不足しているのか
何年間の受入れを想定しているのか
1000人を受け入れる住宅は確保できるのか
日本語教育の体制はあるのか
医療や教育などの行政サービスは対応できるのか
地域社会に受け入れる能力があるのか
といった問題です。
外国人材の受入れ人数は、
「海外に働きたい人が何人いるか」
だけで決めるものでも、
「日本で人手が何人足りないか」
だけで決めるものでもありません。
日本社会が、どの程度の人数を、どのような条件で受け入れられるのか。
これも重要な政策判断の材料
です。

「人手不足だから外国人」だけでは、政策として不十分である

日本の人手不足が深刻であることは確かです。
しかし、外国人材の受入れについて、国の制度そのものが「人手不足だから無条件に外国人を受け入れる」という考え方を採っているわけではありません。
現在の特定技能制度は、生産性向上や国内人材の確保のための取組を行ってもなお、人材確保が困難な産業分野において、一定の専門性・技能を有する外国人を受け入れる制度とされています。
また、2027年4月1日から運用開始予定の育成就労制度も、人手不足分野における人材の育成・確保を目的とする制度として設計されています。
つまり、制度上も、
外国人を入れれば人手不足問題は解決する
という単純な考え方にはなっていません。
外国人材の受入れを検討する場合には、
賃金や労働条件を改善できないのか
仕事の生産性を上げられないのか
省人化・自動化できないのか
国内人材を活用できないのか
そもそも、その事業やサービスのあり方を見直す必要はないのか
といった問題も考える必要があります。
もちろん、それでも人材が足りない分野はあるでしょう。
その場合には外国人材を活用する。
私は、それを否定しているのではありません。
問題なのは、
外国人材を
「必要な場合に補完的に活用する」のではなく、「人手不足を埋め続けるための恒常的な手段」にしてしまうこと
ではないでしょうか。
私はこれまで、これを「外国人依存型」から「外国人補完型」へという言葉で表現してきました。

外国人材を「受け入れる」ことより、「受け入れた後」を考える

外国人材政策を考えるとき、どうしても入口に目が向きます。
誰を呼ぶのか。
どこの国から呼ぶのか。
何人呼ぶのか。
どの仕事に就いてもらうのか。
しかし、本当に重要なのは、その後です。
1000人が来た翌日から、どうするのか。
という問題です。
日本語を学ぶ機会はあるのか。
生活上のルールや日本社会の仕組みを理解できる環境が整っているか。
労働関係法令が守られているか。
外国人本人の権利が守られているか。
その上で、外国人も日本の法令や社会のルールの下で、権利と責務を担うことが明確になっているか。
問題が起きたとき、どこに相談すればよいのか。
そして、制度がうまく機能しなかったとき、誰が検証し、誰が修正するのか。
ここまで考えて、初めて「外国人受入れ政策」と呼べるのではないでしょうか。
外国人を連れてくることは、政策の終点ではありません。むしろ、そこからが始まりです。

文化は尊重する。しかし、法令は「尊重」ではなく「遵守」である

私は、外国人の文化や宗教、生活習慣を尊重することには異論ありません。
異なる文化的背景を持つ人々が日本で生活する以上、お互いの文化を理解する努力は必要でしょう。
しかし、
文化と法規範は同じものではありません。
文化は多様であってよい。
生活習慣にも違いがあってよい。
しかし、日本に住む以上、日本の法令に従うことは当然です。
「日本の法律を尊重しましょう」という話ではありません。
法令・法制度という法規範は、尊重する以前に遵守するものです。
これは外国人だけに求める話ではありません。
日本人にも当然に当てはまる原則です。
したがって、外国人を受け入れる政策においても、
外国人の文化的背景は尊重する。
しかし、日本社会の法的ルールは共通の基盤とする。
という線引きが必要
だと思います。

「外国人に来てもらう」だけではなく、「社会に参加できる仕組み」をつくる

もう一つ重要なのは、日本社会の側の責任です。
外国人を受け入れるのであれば、
「日本に来たのだから、自分で何とかしてください」
というわけにはいきません。
日本語を学ぶ機会。
生活に必要な制度を理解する機会。
働くうえで必要な情報。
行政サービスへのアクセス。
地域社会との接点。
こうした環境を整えることも必要です。
これは「外国人を甘やかす」という話ではありません。
外国人が日本社会のルールを理解し、必要な責務を果たしながら生活できるようにするための、日本社会の側の基盤整備です。
私は、外国人政策を考えるとき、
「外国人に何をしてもらうか」
だけではなく、
「外国人が日本社会の中で秩序ある形で参加できるよう、日本社会の側に何を整備するのか」
という視点が必要だと考えています。

「誰が責任を負うのか」という問いも避けてはならない

今回の話をめぐるSNS上の反応には、
「問題が起きたら誰が責任を取るのか」
という趣旨の疑問もありました。
この問いも、単なる批判として片付けるべきではないと思います。
もちろん、犯罪やトラブルが起きた場合には、その行為をした個人が法に従って責任を負うのが原則です。
しかし、ここで問うべき「責任」とは、それだけではありません。
外国人材を受け入れる制度そのものについて、
・国は何を担うのか
・自治体は何を担うのか
・雇用企業は何を担うのか
・人材紹介・仲介を行う事業者は何を担うのか
・支援機関は何を担うのか
という制度上の責任分担も明確でなければなりません。
「人材を呼びましょう」と言う人だけが注目され、
「呼んだ後は誰が何をするのか」
が曖昧なままでは、持続可能な政策にはなりません。
そして、この点でも重要なのは、善意のある個人に責任を集中させることではありません。
大規模な受入れを行うなら、個人の責任感に頼るのではなく、国、自治体、企業、支援機関などが、それぞれの責任を制度として分担する必要があります。

民間の善意や人脈を、「政策」に変えるには

今回の高知の話で私が考えさせられたのは、ここです。
植田氏には、海外で働いた経験があり、バングラデシュとの人脈があります。
その経験を生かして、日本とバングラデシュの人材交流を進めようとすること自体は、民間の活動として十分に理解できます。
そして、こうした個人の経験や人脈が、国際交流の大切な出発点になることもあるでしょう。
しかし、
民間の善意や人脈が、人材交流の出発点になることと、それを大規模な外国人受入れ政策へと発展させることは、別の問題です。
大規模な受入れに発展させる段階では、もはや善意だけでは足りません。
地域社会そのものに影響を及ぼす可能性がある以上、
必要なのは、個人の熱意だけではなく、社会全体で検討し、準備し、責任を分担する「政策」です。
これは、バングラデシュに限った話ではありません。
ベトナムでも、ネパールでも、インドネシアでも、ミャンマーでも、その他どの国から外国人を受け入れる場合でも、同じ問題が生じます。
だからこそ、私は今回の話を「バングラデシュ論」にしたくないのです。

外国人政策は、地域社会だけで決められる問題でもない

もう一つ忘れてはいけないことがあります。
外国人の受入れは、一つの企業や、一つの団体、あるいは一つの自治体だけで完結する問題ではありません。
 出入国・在留管理。
 労働
 教育
 医療
 社会保障
 住宅
 警察・治安
 地方行政
 地域社会
多くの行政分野が関係します。
高知県自身も、外国人材の受入れ・定着を県の政策課題として位置付け、「暮らしやすい・働きやすい・学びやすい環境づくり」を進めています。
つまり、すでに地方自治体も外国人材の受入れに伴う環境整備に取り組んでいるわけです。
だからこそ、1000人という規模の話をするのであれば、
「人材を呼ぶ」ことだけでなく、「その人材が生活する地域社会をどう設計するのか」
まで考える必要があります。

そして、そこには地方自治体だけではなく、国の外国人政策との整合性も必要になります。
外国人政策は、個別の善意や地域ごとの個別対応だけに委ねるには、あまりにも大きな問題なのです。

私が「日本版ルール主義」と呼んでいる考え方

私はこれまで、外国人政策について「日本版ルール主義」という考え方を提唱してきました。
これは、外国人を排除するための考え方でも、外国人を無条件に受け入れるための考え方でもありません。
外国人受入れを、
 誰を受け入れるのか。
 何のために受け入れるのか。
 どの分野で必要なのか。
 何人受け入れるのか。
 日本社会には、その人数を受け入れる能力があるのか。
 どのような条件で受け入れるのか。
 受入れ後、どのように日本社会に参加してもらうのか。
 外国人の権利をどのように保障するのか。
 同時に、どのような法的・社会的責務を求めるのか。
 問題が発生した場合、誰がどのように対応するのか。
 政策の結果を誰が検証し、必要なら修正するのか。
という
一連の体系として考えるものです。
一言で言えば、
「外国人に厳しいか、優しいか」ではなく、「外国人政策として制度的に整っているか」を問う考え方です。
現在の特定技能制度も、国内人材の確保や生産性向上の取組を行ってもなお人材確保が困難な分野に対象を限定するという考え方を採っています。
また、2027年4月から始まる育成就労制度では、外国人材の育成と人材確保を制度目的に据え、日本語能力に関する要件なども設けられています。
しかし、制度をつくれば、それだけで十分というわけではありません。
制度をどう運用し、地域社会でどう機能させ、結果をどう検証し、必要ならどう修正するか。
そこまで含めて、外国人政策の「体系化」を考える必要があります。

終章 「歓迎」でも「反対」でもない。その間に、政策がある

今回、高知で、
「高知に人材1000人を!」
という目標が語られました。
その背景には、バングラデシュの若い人材、日本への好意、高知の人手不足、そして両国をつなごうとする人の経験や人脈があります。
それぞれに意味のある要素でしょう。
しかし、それらを積み重ねただけでは、まだ「外国人政策」にはなりません。
外国人を受け入れるということは、人手を補充することだけではないからです。
一人の人間が日本に来て、働き、暮らし、地域社会の中で生活する。
その人には権利があります。
同時に、日本社会の一員として守るべき法令や果たすべき責務もあります。
そして、それを可能にする制度と環境を、日本社会の側も整えなければなりません。
だから私は、今回の高知の話を、
「バングラデシュ人1000人を受け入れるべきか、受け入れるべきではないか」
という二択で考える必要はないと思います。
問うべきなのは、
 なぜ受け入れるのか。
 誰を受け入れるのか。
 何人受け入れるのか。
 どのような条件なのか。
 日本社会には受け入れる能力があるのか。
 受け入れた後、どのように社会参加してもらうのか。
 外国人の権利と責務をどう位置付けるのか。
 そして、問題が起きたとき、誰がどのように対応するのか。

ということです。
「日本を尊敬している」。
それは、歓迎するうえでの一つの材料になるでしょう。
しかし、それだけで政策を決めることはできません。
一方で、
「治安が心配だ」。
その懸念を無視することもできません。
しかし、国籍だけを理由に個人を一括して評価することも適切ではありません。
「日本を尊敬しているから歓迎する」だけでもない。
「治安が心配だから反対する」だけでもない。
その間にこそ、国家として考えるべき外国人政策があります。
そして、もう一つ忘れてはならないことがあります。
善意は、政策の代わりにはなりません。
善意や熱意は、国際交流や人材交流を始める大切な力になるでしょう。
しかし、それが1000人規模の外国人受入れへと発展するのであれば、必要なのは、もはや一個人の善意や熱意、責任感だけではありません。
十分な調査と検討を行い、必要な制度と体制を整え、関係する人々の責任を明確にしたうえで、慎重に進める。
それが、社会に対して責任を負うということではないでしょうか。
外国人材を「呼ぶ」ことから、外国人の受入れを「体系的な政策として設計する」ことへ。
私が「日本版ルール主義」や、外国人政策の「体系化」を繰り返し論じているのは、そのためです。
外国人材を必要とする日本であるなら、なおさら、外国人を受け入れる「数」だけではなく、受け入れる「仕組み」そのものを考えなければならない。
今回の高知の「人材1000人」という話は、そのことを私たちに問いかけているように思います。

\ 最新情報をチェック /

トップへ戻る
タイトルとURLをコピーしました