富山県が「多文化共生」の推進に関する条例の制定を検討しています。
人口減少や少子高齢化、人手不足、外国人住民の増加などを背景に、外国人住民と日本人住民が地域社会で共に暮らしていくための基本的な考え方を条例として定めようというものです。
私は、外国人住民が地域社会の一員として生活するための環境を整えること自体には異論ありません。
ただし、今回の条例案を読んで、どうしても注文を付けたいところがあります。
それは、「共生」の土台を何に置くのかという問題です。
私が考える共生の土台は、「多文化」そのものではありません。
共通の法とルールです。
そして、その共通の法とルールの土台となるのは、いうまでもなく、日本の法令・法秩序と、日本社会における基本的なルールです。
ここを曖昧にしたまま「多文化共生」を掲げることには、注意が必要だと思います。
そもそも「共生」とは何なのか
条例案では、「多文化共生」を、
国籍や民族等の異なる人々が、互いの文化的なちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていく
ことなどと定義しています。
もちろん、文化の違いを認め合うことは大切です。
日本人と外国籍住民では、言語も、食文化も、宗教観も、生活習慣も異なることがあります。
そうした違いを一方的に否定する必要はありません。
しかし、ここで一つ考えておきたいことがあります。
「共に生きる」とは、何を共有して生きることなのでしょうか。
私は、ここを明確にすることが「共生」を考えるうえで最も重要だと思います。
文化は尊重する。しかし、法律は守る
私の考えは、非常に単純明快です。
文化は違ってよい。しかし、法は共通でなければならない。
日本で暮らす以上、日本人であろうと外国籍住民であろうと、日本の法令・法秩序という共通の土台の下で、守るべき共通のルールがあります。
その土台となるのが、日本国憲法を頂点とする日本の法令・法秩序と、日本社会の基本的なルールです。
文化や習慣については、「違い」として尊重することができます。
しかし、法律・条例などの法規範は、文化や習慣と同じ意味で「尊重」するものではありません。
法規範は、社会の構成員として守るべき共通のルールです。
これは外国人だけに求められる特別な義務ではありません。
日本人も同じです。
日本人も外国籍住民も、日本の法秩序の下で生活する。
その共通の土台があって初めて、その上に文化の違いを認め合う余地が生まれるのだと思います。
文化と法規範を同じ次元で考えてはいけない
ここで、「文化」と「法」を分けて考える必要があります。
例えば、食事の習慣、服装、祭り、音楽、家庭で使う言語などは、それぞれの文化として尊重することができます。
日本人と外国籍住民が互いの文化を知り、理解し、必要に応じて取り入れ合うことも、地域社会を豊かにするでしょう。
しかし、法律や条例、行政上のルールまでが、文化の違いによって相対化されるわけではありません。
「これは私たちの国では普通の習慣だから、日本でも認めてほしい」ということと、
「日本の法令上、認められる行為なのか」ということは、別の問題です。
文化には多様性があってよい。
しかし、法規範まで多様化してよいわけではありません。
日本で暮らす以上、守るべき共通の法とルールがあります。
そして、その法とルールの基礎にあるのは、日本の法令・法秩序と、日本社会が共有している基本的なルールです。
「社会規範を尊重する」だけでは、曖昧ではないか
今回の富山県の条例案で注目したいのが、第6条です。
そこでは、県民について、
互いの文化的なちがいとともに本邦及び地域の社会規範を尊重しながら
多文化共生の推進に寄与するよう努める、としています。
これは、条例案の検討過程で寄せられた意見を踏まえて、「社会規範」という言葉が盛り込まれたものと理解しています。
この点は重要な前進だと思います。
ただ、それでも私は、もう一歩踏み込んでほしいと思います。
なぜなら、「社会規範」という言葉だけでは、法律・条例などの法規範と、地域社会の慣習や生活上のルールとの区別が明確ではないからです。
法律は、単に「尊重するもの」ではありません。
守るべきものです。
もちろん、条例の中ですべての法令遵守義務を改めて書かなければならないという意味ではありません。
日本国憲法や法律を守ることは、条例が書いているかどうかにかかわらず、当然の法的前提だからです。
私が問題にしているのは、多文化共生という言葉を掲げる条例だからこそ、その共通の土台が何であるのかを、読者に誤解の余地なく示しておく必要があるのではないかということです。
「それぞれの文化」を持ち寄って、真ん中を作ることではない
ここは、特に誤解のないようにしておきたいところです。
「多文化共生」という言葉から、
「日本文化も大切、外国文化も大切。だから、お互いに少しずつ譲歩して、新しい文化やルールを作っていこう」
というイメージを持つ人がいるかもしれません。
しかし、私はそれを「共生」の基本的な考え方にすることには賛成できません。
外国人との共生とは、日本文化と外国文化を混ぜ合わせ、双方が譲歩して新しい文化やルールをつくることではありません。
共生とは、むしろ、
一つの日本社会の中で、日本の法令・法秩序と社会の基本的なルールを共通の土台として共有し、その共通のルールの下で、それぞれの文化の違いを尊重しながら共に暮らすこと
だと私は考えます。
つまり、
文化は多様であってよい。
しかし、法と基本的なルールは共通でなければならない。
ということです。
「対等」とは、文化や法のルールがすべて同じ重さという意味ではない
条例案には、「対等な関係を築こうとしながら」という表現もあります。
もちろん、人間としての尊厳や基本的人権において、日本人と外国籍住民が対等であることは当然です。
しかし、「対等」という言葉を、
「日本のルールも外国人の出身国のルールも、それぞれ同じように尊重し、双方が譲り合って決める」
という意味にまで広げてはいけません。
日本に住む以上、共通の法的秩序があります。
その法的秩序の下で、日本人も外国籍住民も対等な社会の構成員として生活する。
そのうえで、それぞれの文化的背景を尊重する。
私は、この順序が大切だと思います。
「一つの社会」であることを忘れてはいけない
外国籍住民が増えていけば、地域社会には当然、さまざまな文化が存在するようになります。
しかし、それによって日本社会が、それぞれの文化圏が並立する社会になるわけではありません。
日本には日本の法令・法秩序があります。
日本の地域社会には、その地域で暮らす人々が共有する基本的なルールがあります。
その共通の土台の上に、さまざまな文化を持つ人々が暮らす。
私は、それが「一つの日本社会」であることの意味だと考えます。
共生とは、それぞれの文化を持った人々が、それぞれのルールを持ち寄って共存することではありません。
共通の法とルールを共有し、その共通の土台の上で、それぞれの文化を尊重しながら一つの社会を共に生きることです。
もちろん、日本社会の側にも責任がある
だからといって、
「外国籍住民は日本のルールを守ればよい。あとは自分で何とかしなさい」
という話でもありません。
ここは明確に区別する必要があります。
外国籍住民が日本の法令や社会の基本的なルールを理解し、守りながら生活できるようにすることは、日本社会の側にも責任があります。
例えば、日本語教育、学校教育、生活情報の提供、行政手続の案内、地域との交流、職場での適切な支援などです。
条例案にも、日本語教育や生活環境の整備、地域や職場での活動・就労環境の整備が盛り込まれています。
これは重要な取り組みです。
「ルールを守れ」と言うだけではなく、「ルールを理解し、守れるようにする」。
そのための環境を日本社会の側が整えることも、共生政策の重要な役割でしょう。
しかし、それは「ルールそのものを変える」ということとは違います。
守れるように支援することと、守るべきルールを文化の違いに合わせて相対化することは、まったく別の話です。
「多文化共生」から「秩序ある社会参加」へ
私はこれまで、「多文化共生」という言葉について、何度か考えてきました。
もちろん、この言葉が直ちに間違っているということではありません。
しかし、外国人の受入れが拡大し、日本社会の構成員として長期的に暮らす外国籍住民が増えていく現在、そろそろ「共生」という言葉の中身を、より具体的に考える必要があると思います。
私が重視したいのは、
「外国人の日本社会への秩序ある参加」
という考え方です。
ここでいう「秩序」とは、外国人を一方的に日本社会へ同化させるという意味ではありません。
日本人も外国籍住民も、共通の法とルールの下で生活する。
そのうえで、外国籍住民が持っている文化や能力を生かしながら、地域社会の一員として参加する。
そして日本社会の側も、その参加を可能にするための教育、言語、生活、就労などの環境を整える。
そうした「権利と責務」の双方を踏まえた社会参加を目指すべきだと私は考えています。
富山県の条例案に望みたいこと
富山県の条例案は、多文化共生を地域社会の重要な政策課題として位置付けようとしています。
そのこと自体は理解できます。
だからこそ、条例の根本にある「共生」の意味を、もう少し明確にしてほしいと思います。
私が特に明確にしてほしいのは、次の点です。
第一に、共通の法とルールの土台が、日本の法令・法秩序と日本社会の基本的なルールにあること。
第二に、文化的な違いは尊重する一方、法律・条例などの法規範は「尊重するもの」ではなく、すべての人が守るべき共通のルールであること。
第三に、外国人との共生とは、日本文化と外国文化を混ぜ合わせ、双方が譲歩して新しい文化やルールを作ることではないこと。
第四に、日本人も外国籍住民も、一つの日本社会の中で共通の法とルールを共有し、その土台の上で互いの文化を尊重するという関係であること。
そして第五に、外国籍住民がそのルールを理解し、守りながら地域社会に参加できるよう、日本社会の側も必要な環境整備を行うことです。
この五つが明確になれば、「多文化共生」という言葉から生じるさまざまな誤解も、かなり少なくなるのではないでしょうか。
共生の土台は「多文化」ではない
私は、文化の違いを否定したいのではありません。
むしろ、文化の違いは違いとして尊重すればよいと思っています。
問題は、文化の多様性と、法秩序の共通性を同じ次元で扱ってしまうことです。
日本人には日本人の文化があり、外国籍住民にはそれぞれの国や地域で培われた文化があります。
それは違っていてよい。
しかし、日本で暮らす以上、日本の法令・法秩序と社会の基本的なルールという共通の土台があります。
そこは共有しなければなりません。
そして、その共通の土台があるからこそ、その上で文化の違いを尊重することができます。
私は、「多文化共生」を考えるとき、この順序を逆にしてはいけないと思います。
共生の中心に置くべきなのは、「多文化」そのものではありません。
共通の法とルールの下で、一つの社会を共に生きることです。
文化は違ってよい。
しかし、法は共通でなければならない。
そして、その共通の法とルールの土台となるのは、日本の法令・法秩序と、日本社会の基本的なルールです。
私は、この原則を明確にしたうえでこそ、日本における「共生」を論じることができると考えています。富山県の条例案にも、ぜひそのことを明確に示してほしいと思います。
