「多文化共生」から「外国人の日本社会への秩序ある参加」へ――一つの日本社会を共に生きるという発想へ

「多文化共生」という言葉を、私たちはこれまで何気なく使ってきました。
政府や自治体の外国人政策でも、広く使われてきた言葉です。
しかし、ここで一度立ち止まって考えてみたいと思います。
そもそも私たちは、何をもって「共生」と言っているのでしょうか。
私は今、「多文化共生」という言葉そのものを、見直す時期に来ているのではないかと考えています。
これは、「多文化共生」という言葉が、本来から間違っていたと言いたいのではありません。
文化や宗教、生活習慣の違いを互いに理解し、尊重することは大切です。
しかし、長く使われてきた言葉に、国民の側からさまざまなイメージや違和感が生まれているのであれば、政策を進める側は、そのことを軽視すべきではありません。
だからこそ私は、単に「多文化共生」という言葉の意味を説明し直すのではなく、外国人政策の基本的な考え方そのものを、もう一度整理し直す必要があると思っています。
私が提案したいのは、
「多文化共生」から「外国人の日本社会への秩序ある参加」へ。
という発想の転換です。
これは、単なる言葉の言い換えではありません。
「多文化共生」という発想から、「一つの日本社会を、国籍の異なる人々が共に生きる」という発想へ転換する。
そのことが、今回の問題提起の核心です。

「共生」の中心に置くべきなのは、「多文化」なのか

私がまず問い直したいのは、ここです。
「多文化共生」という言葉からは、ともすると、
「日本文化」と「外国文化」という、それぞれ独立した文化集団があり、その違いを認め合いながら共に暮らす、
というイメージが生まれます。
さらに、そのイメージが進むと、
「日本のルール」と「外国のルール」の違いについても、双方が譲り合いながら、新しい共通のルールをつくっていく、
という受け止め方につながる可能性があります。
しかし、私は、ここに根本的な問題があると思います。
日本で暮らす人々が生きている社会は、日本社会という一つの社会です。
日本人の社会と外国人の社会が、それぞれ別々に存在し、その二つを「共生」させるという発想ではありません。
国籍や文化が異なっていても、日本で暮らす以上、同じ日本社会の中で生活する一人ひとりの人間です。
したがって、外国人政策における「共生」の中心に置くべきなのは、「多文化」そのものではありません。
一つの日本社会を、国籍の異なる人々が共に生きること。
私は、ここを出発点にすべきだと考えます。

「秩序ある参加」とは、何を意味するのか

は、「外国人の日本社会への秩序ある参加」とは、具体的に何を意味するのでしょうか。
ここでいう「秩序ある」とは、外国人だけに特別な負担を求めるという意味ではありません。
また、外国人を一方的に管理・統制するという意味でもありません。
私が考える「秩序ある参加」とは、
日本の法秩序と社会生活上の基本的なルールを共有し、日本社会の一員として権利を行使するとともに、その一員としての責務を果たしながら参加すること
です。
言い換えれば、
法秩序は共有する。
基本的な社会ルールも共有する。
文化・宗教・生活習慣の違いは尊重する。

この三つを基本に据えます。
そして、必要な制度変更がある場合には、
外国人だからという理由ではなく、日本社会全体にとって必要なのかを、民主的な手続によって判断する。
これが「秩序ある参加」の基本的な意味です。

「共生」は、日本のルールと外国のルールを混ぜ合わせることではない

ここは、特に明確にしておきたいところです。
私が考える「外国人との共生」とは、日本文化と外国文化を混ぜ合わせ、双方が譲歩して新しい文化やルールをつくることではありません。
まして、
「日本のルールも大切だが、外国人の文化ではこうだから、その中間を取ろう」
ということでもありません。
日本という主権国家の中で生活する以上、日本の憲法と法律、そして社会生活上の基本的なルールが、その社会を支える共通の土台になります。
もちろん、外国人には、それぞれの文化、宗教、生活習慣があります。
それらを尊重することは大切です。
しかし、それは、日本社会の法秩序や公共の秩序を崩してよいという意味ではありません。
文化の違いを尊重することと、ルールを別々にすることは、同じではありません。
ここを曖昧にしてはいけないと思います。

外国人を「別の文化集団」として見るのではなく、日本社会の一員として見る

「外国人の日本社会への秩序ある参加」という言葉で、私が最も重視したいのは、「参加」という言葉です。
ここでいう「参加」とは、単に地域の行事に参加するといった狭い意味ではありません。
日本語を学び、日本の制度や社会生活上の基本的なルールを理解する。
法律を守る。
地域社会の一員として生活する。
日本社会の一員として権利を行使する。
そして同時に、その一員としての責務を担う。
――そうしたことを含めて、「日本社会への参加」と考えます。
つまり、
「外国人を日本社会とは別の文化集団として捉え、その文化集団との共生を考える」のではなく、「日本社会の一員として、外国人も共に社会をつくっていく」
という考え方
です。
ここに、「多文化共生」と「外国人の日本社会への秩序ある参加」との大きな違いがあります。

「参加」は外国人だけに求めるものではない

もっとも、「外国人の日本社会への秩序ある参加」という表現を、外国人だけに一方的な努力を求める言葉にしてはいけません。
日本社会の側にも、果たすべき役割があります。
国籍や文化の違いだけを理由に、不当に排除したり、偏見を持ったりしてはなりません。
日本語を学び、制度やルールを理解しようとする外国人が、日本社会の一員として生活し、能力を発揮できる環境を整えることも必要です。
つまり、「参加」とは、
外国人が日本社会に合わせるだけの一方通行ではなく、日本社会の側も、法の下の平等という原則に立って、外国人を同じ社会の一員として受け止めること
を含んでいます。
ただし、ここでも大切なのは、「受け止める」ということと、「外国人の要求に合わせて日本社会のルールを変更する」ということを混同しないことです。
外国人を尊重することと、外国人の要求をすべて受け入れることは、同じではありません。

文化・宗教・生活習慣の違いは、尊重する

「秩序ある参加」を強調すると、
「それでは、外国人に日本文化への同化を求めるのか」
という疑問を持つ方もいるかもしれません。
私は、そう考えているわけではありません。
文化、宗教、生活習慣などには、人それぞれの違いがあります。
日本社会の法秩序や公共の秩序を損なわない限り、そうした違いは互いに理解し、尊重されるべきです。
同じ日本社会の一員であることと、文化的に同じになることとは、まったく別の話です。
同じルールを共有することと、同じ文化になることは違います。
日本社会の一員として生活しながら、自分の文化や宗教、生活習慣を大切にすることはできます。
だからこそ、
「法秩序は共有する。しかし、文化まで一律に同じにする必要はない」
という整理が重要なのです。

法律を変える必要があるなら、国民全体の問題として判断する

では、外国人の文化や生活習慣と、日本の制度やルールとの間に、調整が必要な問題が生じた場合はどうすればよいのでしょうか。
私は、ここにも原則を置くべきだと思います。
日本で暮らす外国人の文化だからという理由だけで、特別なルールをつくるのではありません。
もし現在の法律や制度を変更する必要があるのであれば、
「その変更は、日本社会全体にとって必要なのか」
を考える
べきです。
そして、必要であれば、日本国民が民主的な手続によって判断する。
これは外国人を排除する考え方ではありません。
むしろ、外国人を特別扱いするのではなく、日本社会全体のルールを、国民全体の問題として考えるということです。
外国人の文化を理由に制度を変えるのではなく、日本社会全体にとって必要な制度変更なのかを判断する。
この原則があれば、文化的な違いを尊重しながら、法秩序を維持することができます。

なぜ、私は「多文化共生」という言葉を見直したいのか

ここまで書くと、
「それなら『多文化共生』という言葉を使い続け、その意味を正しく説明すればよいのではないか」
と考える方もいるでしょう。
しかし、私は、あえてその言葉の使用自体を見直すべきだと考えています。
理由は単純です。
政策用語は、辞書的な定義だけで国民に伝わるものではないからです。
長年使われてきた言葉に、国民の側からさまざまなイメージや違和感が生まれているのであれば、
「本当の意味はこうです」
と説明し続けるだけでは限界があります。
まして、外国人政策への不安や不信が存在する中で、「多文化共生」という言葉そのものが、
「文化の違いを優先し、日本社会のルールを曖昧にする政策なのではないか」
と受け止められてしまうのであれば、その言葉を使い続けることが政策への理解を深めるとは限りません。
だから私は、言葉を変えるだけではなく、政策の考え方そのものを変えるべきだと考えます。

「多文化共生」から、「外国人の日本社会への秩序ある参加」へ

ここで、私が提案したい転換を、もう一度はっきりさせておきます。
これは、
「多文化共生」
  ↓
「外国人の日本社会への秩序ある参加」
という単なる言い換えではありません。
そうではなく、
「多文化共生」という発想から、
「一つの日本社会を、国籍の異なる人々が共に生きる」という発想へ。
――政策の基本的な視点そのものを転換するのです。
そのうえで、
法秩序は共有する。
基本的な社会ルールも共有する。
文化・宗教・生活習慣の違いは尊重する。
必要な制度変更は、外国人だからという理由ではなく、日本社会全体の必要性を民主的に判断して決める。

これを、外国人政策における「共生」の基本原則として据える。
その具体的な方向を、私は、
「外国人の日本社会への秩序ある参加」
と表現したいと思います。

政策の言葉を変えるだけでなく、政策そのものを問い直す

もちろん、「外国人の日本社会への秩序ある参加」という言葉だけで、外国人政策のすべてを表現できるわけではありません。
日本語教育、学校教育、社会保障、税、医療、住宅、地域社会との関係、就労、出入国・在留管理など、具体的な政策課題はそれぞれ異なります。
しかし、それらを考える際の基本的な視点として、
「この政策は、外国人を日本社会とは別の存在として扱うものなのか、それとも、日本社会の一員として秩序ある参加を支えるものなのか」
と問い直すことはできます。
そして、その問いを積み重ねていけば、「共生」という抽象的なスローガンではなく、具体的な政策の中身を評価できるようになります。
制度は、言葉ではなく、実際の政策によって評価されるべきです。

「共生」を、もう一度シンプルに考える

私は、外国人を排除する社会を望んでいるわけではありません。
また、日本文化だけを守り、外国人には日本文化への同化を一方的に求める社会を望んでいるわけでもありません。
私が考えているのは、そのどちらでもありません。
日本社会という一つの社会がある。
そこには、日本人も外国人も暮らしている。
国籍が違っても、同じ社会の中で暮らす以上、法秩序と社会生活上の基本的なルールを共有する。
その一方で、文化、宗教、生活習慣などの違いについては、法律や公共の秩序に反しない限り、互いに理解し、尊重する。
そして、日本社会の一員として、それぞれが権利を享受するとともに、その一員としての責務を担う。
私は、これが「共生」の基本的な姿だと考えます。
だからこそ、これからの外国人政策について、私は「多文化共生」という言葉に代えて、
「外国人の日本社会への秩序ある参加」

という、より具体的な視点から考えていくことを提案したいと思います。
「多文化」をどう共生させるかではない。
一つの日本社会を、国籍の異なる人々が、どのように秩序を保ちながら共に生きていくのか。
問うべきなのは、こちらではないでしょうか。
そして、その答えを探すときに大切なのは、言葉の美しさではありません。
法の支配。
民主的な意思決定。
社会の基本的なルール。
そして、互いの尊重。

こうした共通の土台を、私たちがどこまで大切にできるかです。
それこそが、これからの日本における「共生」を考える出発点なのではないでしょうか。

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