はじめに――今、本当に問われていること
最近、同志社国際高校の体験学習をめぐる問題をきっかけに、「教育現場が萎縮しているのではないか」という議論が起きています。
その象徴的な出来事の一つが、株式会社笑下村塾代表・たかまつなな氏らによる記者会見でした。
会見では、文部科学省が示した見解について、教育現場や外部講師が過度に萎縮するおそれがあるとして、より具体的な基準を示すべきだとの主張が展開されました。
この問題提起には理解できる部分があります。
社会問題を扱う教育そのものが萎縮し、子どもたちが現実の社会課題に触れる機会が失われることは望ましくありません。
しかし、この議論を見ていて私は一つの疑問を抱きました。
「教育現場が萎縮する」と言うとき、私たちは誰の自由や利益を心配しているのでしょうか。
教師でしょうか。
外部講師でしょうか。
教材会社でしょうか。
それとも、生徒でしょうか。
私は、この問いこそが今回の問題の本質だと考えています。
教師の裁量は何のために認められているのか
学校教育の現場では、教師には一定の教育上の裁量が認められています。
また、外部講師にも表現の自由があります。
民間団体や企業が教育活動に参加することにも意義があります。
しかし、それらは何のために認められているのでしょうか。
それは、教える側の利益のためではありません。
子どもたちが多様な知識や価値観に触れ、より豊かな学びを得るためです。
最高裁判所も旭川学力テスト事件判決(昭和51年5月21日)において、普通教育の教師にも一定範囲の教授の自由が認められることを前提としつつ、その自由は無制約なものではないとしています。
なぜなら、学校教育の目的は、教師が自らの価値観を広めることではなく、子どもたちの学びと成長にあるからです。
言い換えれば、教師の裁量や教授の自由は、それ自体が目的なのではなく、生徒の学習を支えるために認められているものだと考えるべきでしょう。
学校で最も保護されるべき存在は誰か
学校にはさまざまな立場の人がいます。
教師。
校長。
教育委員会。
外部講師。
教材会社。
いわゆる市民団体。
しかし、その中で最も保護されるべき存在は誰でしょうか。
私は、生徒だと考えます。
なぜなら、生徒は未成年者だからです。
しかも学校という場では、教師と生徒は対等な立場ではありません。
教師は評価権を持っています。
生徒は評価される側です。
教師は指導する立場です。
生徒は指導を受ける立場です。
そのため、教師に誘導の意図がなかったとしても、生徒は教師の意見を「正しい答え」と受け取りやすい傾向があります。
最高裁判所が旭川学力テスト事件判決(昭和51年5月21日)で、普通教育の児童生徒は教師から大きな影響を受ける存在であることを指摘したのも、このような現実を踏まえたものです。
この視点は、今回の議論を考えるうえで極めて重要です。
「教育現場の萎縮」より先に考えるべきこと
もちろん、教育現場の萎縮は望ましいことではありません。
教師や外部講師が過度に委縮し、社会問題について議論することすら避けるようになれば、教育の質は低下するでしょう。
しかし、その前に確認しなければならないことがあります。
それは、
生徒が自由に考えることができているか。
異なる意見に触れる機会が保障されているか。
特定の結論へ誘導されていないか。
ということです。
教師や外部講師には、自らの考えを社会に向けて発信する機会があります。
しかし、生徒にはそのような機会も社会的影響力もほとんどありません。
だからこそ、自由や利益が衝突する場面では、まず生徒側への影響を慎重に考える必要があるのです。
民間団体への期待と説明責任
今回の議論では、笑下村塾が注目を集めています。
しかし、本質的な問題は特定の団体だけにあるのではありません。
保守系団体であれ、リベラル系団体であれ、企業であれ、宗教団体であれ、学校教育に関わる以上は同じ原則が求められます。
社会問題を扱う教材では、
どの論点を扱うのか。
どの立場を紹介するのか。
どの情報を省略するのか。
によって、生徒が受ける印象は大きく変わります。
だからこそ、
異なる意見を公平に紹介しているか。
生徒自身が考える余地を残しているか。
という点について、説明責任が求められるのです。
学校教育に関わる以上、「善意だから大丈夫」という説明だけでは十分ではありません。
教育の政治的中立性の本当の意味
教育の政治的中立性という言葉を聞くと、
「教師や外部講師を縛るためのルール」
のように受け取られることがあります。
しかし、本来そうではありません。
教育の政治的中立性は、教師を取り締まること自体を目的としているわけではありません。
その本質は、生徒が自由に学び、自由に考え、自ら判断する機会を守ることにあります。
最高裁は、普通教育の教師にも一定の教授の自由を認めています。
しかし同時に、児童生徒が教師から大きな影響を受けることや、教育の機会均等のために全国的な教育水準を確保する必要があることなどから、教師に完全な教授の自由を認めることはできないとしています。
つまり、教師の裁量が一定の制約を受けるのは、教師を敵視しているからではありません。
生徒の学習権や思想・良心の自由を守るためなのです。
おわりに――本当に守るべきなのは誰の自由なのか
学校教育の主役は教師ではありません。
特定の社会的・政治的な主張を掲げて活動する団体や個人でもありません。
教材会社でもありません。
生徒です。
だからこそ、私たちは「教育現場が萎縮する」という言葉を聞いたとき、まず考えなければなりません。
生徒は自由に考えることができているだろうか。
異なる意見に触れることができているだろうか。
特定の価値観へ誘導されていないだろうか。
民主主義社会に必要なのは、特定の思想を支持する人を育てることではありません。
異なる意見に耳を傾け、自ら考え、自ら判断できる人を育てることです。
教育の政治的中立性とは、教師を縛るための制度ではありません。
未来を担う子どもたちの学習権と思想・良心の自由を守るための制度なのです。
