- はじめに――日本は、これまで「外国人労働者を企業任せ」にしてきたわけではない
- 平成元年改正入管法が採った「質によるコントロール」
- 「質を選べば、人数もコントロールできる」――この仕組みは長い間、機能してきた
- しかし、35年余りを経て、日本の外国人労働者をめぐる状況は大きく変わった
- 「技能実習」「育成就労」「特定技能」「技術・人文知識・国際業務」を一括りにしてはいけない
- 問題の中心は、「技術・人文知識・国際業務」ではないか
- なぜ外国人労働者の受入れを「企業任せ」にしてはならないのか
- 企業にとって「解雇」で終わる問題が、国家にとっては終わらない
- 外国人の受入れには「定着」という時間軸がある
- 外国人の受入れには「不可逆性」がある
- だから、外国人労働者政策は「労働政策」だけでは完結しない
- 「企業の自由」と「国家の責任」は、別の問題である
- 「企業は10年後、20年後の日本社会に責任を負うわけではない」
- では、「特定技能」についてはどう考えるべきか
- 「質によるコントロール」から「質+量のコントロール」へ
- 日本は「外国人を受け入れる国」なのではなく、「外国人をどう受け入れるかを決める国」である
- おわりに――「外国人を受け入れる」から、「責任をもって受け入れる」へ
はじめに――日本は、これまで「外国人労働者を企業任せ」にしてきたわけではない
「日本の外国人労働者政策は、企業任せになっているのではないか」。
外国人労働者の受入れについて考えるとき、しばしばこのような問題提起がなされます。
しかし、ここでいう「企業任せ」という言葉の意味を、まず明確にしておきたいと思います。
日本がこれまで、外国人労働者の受入れについて何のルールも設けず、企業の採用需要にすべてを委ねてきたわけではありません。
むしろ日本は、長い間、在留資格によって、外国人労働者として受け入れることのできる人の範囲を定めることで、「質」をコントロールしてきました。
その典型が、平成元年(1989年)の入管法改正です。
当時の日本政府の考え方を手短に表現すれば、
「外国人労働者を無制限に受け入れるのではなく、受入れ条件を設定し、一定の専門性・技能等を有する外国人に対象を限定する。そうすれば、受け入れる外国人の人数についても、結果として間接的にコントロールできる」
というものでした。
私は、この考え方そのものは、当時の日本の社会・経済情勢を前提とすれば、合理的な制度設計だったと考えます。
そして重要なのは、実際にその仕組みが長い間、一定程度機能してきたということです。
しかし、平成元年改正から35年余りが経過した現在、日本を取り巻く状況は大きく変わりました。
とりわけ、「技術・人文知識・国際業務」という在留資格の在留外国人数が大きく増加した現在、
「外国人を受け入れる条件、すなわち『質』をコントロールすれば、人数については基本的に企業の採用需要に委ねてよい」
という従来の考え方を、今後も維持してよいのか。
私は、いま一度、検証する必要があると考えます。
ここで問題にしているのは、国家が外国人の入国・在留を無審査で企業に委ねている、という意味での「企業任せ」ではありません。
現在の制度が設けている在留資格上の「質」の審査に加えて、外国人労働者の総量や、企業・産業ごとの受入れ規模について、国家がどこまで政策的に関与するのか。
その問題です。
平成元年改正入管法が採った「質によるコントロール」
平成元年(1989年)の入管法改正は、日本の外国人労働者政策における大きな転換点でした。
改正法は平成2年(1990年)6月1日に施行され、専門的・技術的な分野で就労する外国人を受け入れるための在留資格が整備されました。
その後、制度改正を重ねながら、現在の在留資格「技術・人文知識・国際業務」へとつながっていきます。
当時、日本は外国人であれば誰でも自由に日本で働けるようにしたわけではありません。
外国人が日本で就労するためには、一定の在留資格に該当しなければならない。
そして、その在留資格には、それぞれ活動内容や学歴・職歴などについて一定の要件があります。
つまり、
「誰を受け入れるのか」
を、在留資格という法的な仕組みによって国家がコントロールするわけです。
これは、外国人労働者の受入れを考える上で、極めて重要な点です。
日本はもともと、
「外国人労働者を受け入れるか、受け入れないか」
という単純な二者択一で制度を作ったのではありません。
そうではなく、
「どのような外国人なら、どのような活動について、日本での就労を認めるのか」
という「入口」の制度を設けたのです。
これが、日本の外国人労働者政策における、いわば「質によるコントロール」でした。
「質を選べば、人数もコントロールできる」――この仕組みは長い間、機能してきた
ここで、私は一つ強調しておきたいと思います。
現在の外国人労働者数の増加を論じるからといって、平成元年当時の制度設計を「最初から間違っていた」と評価するのは適切ではありません。
むしろ、当時の制度は、相当長い期間にわたって一定の役割を果たしました。
そのことは、「技術・人文知識・国際業務」につながる在留資格の在留外国人数の推移を見ると分かります。
平成元年(1989年)の入管法改正が施行されたのは、平成2年(1990年)6月1日です。
当時は現在の「技術・人文知識・国際業務」という一つの在留資格ではなく、「技術」と「人文知識・国際業務」という二つの在留資格に分かれていました。
法務省(現在の出入国在留管理庁)の在留外国人統計によると、この二つの在留資格の合計人数が初めて10万人を超えたのは、2013年(平成25年)12月末時点です。
その時点での人数は、
「技術」 5万2,658人
「人文知識・国際業務」 4万7,823人
合計 10万0,481人
でした。
つまり、平成2年(1990年)6月の改正入管法施行から、約23年半をかけて、ようやく10万人を超えたことになります。
これは、平成元年改正入管法以降の制度が、外国人労働者を無制限に受け入れるような仕組みではなかったことを示す一つの材料でしょう。
そして、その後の推移を見ると、現在の姿との違いがより鮮明になります。
2025年12月31日現在、「技術・人文知識・国際業務」の在留外国人数は47万5,790人に達しています。
つまり、
2013年末に約10万人だったものが、わずか12年後の2025年末には約47万6千人になった
のです。
ここで重要なのは、単に「人数が増えた」ということだけではありません。
かつては、
「受け入れる外国人の質を制度によって選別すれば、人数についても間接的にコントロールできる」
という制度思想が、長期間にわたって一定程度機能していました。
ところが現在は、同じ制度を基礎としながら、外国人の増加規模と増加速度が大きく変化しています。
したがって、問題は、
「平成元年の制度設計は間違っていたのか」
ではありません。
むしろ、
「当時は合理的であり、実際に機能した制度が、35年余りを経た現在の状況に対してもなお十分に機能しているのか」
ということです。
ここを冷静に検証する必要があります。
しかし、35年余りを経て、日本の外国人労働者をめぐる状況は大きく変わった
では、現在はどうでしょうか。
2025年12月31日現在の在留外国人数を見ると、在留資格別では、
「永住者」 94万7,125人
「技術・人文知識・国際業務」 47万5,790人
「留学」 4万64,784人
「技能実習」 45万6,618人
「特定技能」 39万0,296人
となっています。
ここで特に注目したいのが、「技術・人文知識・国際業務」です。
2025年末には、約47万6千人。
これは、もはや「一部の専門職外国人が例外的に日本で働いている」という規模ではありません。
もちろん、在留資格の名称だけで、その人の職業や能力を一括りに評価することはできません。
「技術・人文知識・国際業務」は、専門的・技術的分野の外国人を幅広く受け入れるための在留資格です。
だからこそ、この資格による在留外国人がこれほど大きな規模になった現在、
「この制度を今後も、基本的に企業の採用需要に委ねてよいのか」
という問いが生じます。
ただし、ここで一つ注意しなければなりません。
「47万6千人になった」という数字だけをもって、「この人数は多すぎる」と結論づけることはできません。
人数の多寡は、本来、
・日本の労働市場への影響
・賃金・労働条件への影響
・国内人材の雇用への影響
・社会保障への影響
・教育への影響
・地域社会への影響
・在留管理への影響
・治安その他の社会的影響
などを総合的に検証したうえで判断すべきものです。
問題は、まさにそこにあります。
現在の規模が、日本社会にとって適切なのかを国家として検証し、その結果に応じて受入れ規模を調整できる制度が十分に備わっているのか。
私は、これこそが問われるべき問題だと考えます。
「技能実習」「育成就労」「特定技能」「技術・人文知識・国際業務」を一括りにしてはいけない
ここで、外国人労働者政策を議論する際にありがちな誤解を一つ整理しておきたいと思います。
外国人労働者といっても、すべて同じ制度ではありません。
在留外国人数が6桁規模となっている就労資格には、
「技術・人文知識・国際業務」
「特定技能」
「技能実習」
があります。
しかし、この三つを同じ性格の制度として論じることは適切ではありません。
「技能実習」は、そもそも制度趣旨が異なる
技能実習は、他の就労資格とは制度の成り立ち・趣旨が異なります。
そして、技能実習制度は発展的に解消され、2027年4月から育成就労制度が施行される予定です。
したがって、技能実習・育成就労については、それ自体の制度趣旨と制度設計の問題として検討する必要があります。
特定技能には、すでに「人手不足」というフィルターがある
一方、「特定技能」は明確に別の制度です。
特定技能は、
生産性の向上や国内人材確保のための取組を行ってもなお、人材を確保することが困難な状況にある産業上の分野
において、外国人によって不足する人材を確保するための制度として設けられています。
しかも、特定産業分野については、人手不足の状況、受入れの必要性、生産性向上や国内人材確保の取組、受入れ見込数などを踏まえて制度運用が行われています。
したがって、
「特定技能も企業が必要と言えば、いくらでも外国人を受け入れられる制度だ」
と理解するのは正確ではありません。
むしろ、特定技能については、「特定産業分野として指定すること自体が現在も妥当なのか」「国内人材確保や生産性向上の取組は十分なのか」という別の問題として検証する必要があります。
問題の中心は、「技術・人文知識・国際業務」ではないか
こうして制度を整理すると、今回、特に検討する必要がある領域が見えてきます。
それが、
在留資格「技術・人文知識・国際業務」
です。
もちろん、この在留資格についても、無制限に外国人を受け入れているわけではありません。
専門的・技術的な業務に従事することなど、在留資格としての要件があります。
しかし、「特定技能」のように、
「特定産業分野であること」
を前提とし、
「国内人材確保や生産性向上の取組を行ってもなお人材確保が困難であること」
を制度の基本的な入口とする仕組みとは異なります。
その結果、
企業が必要と判断し、外国人本人が在留資格の要件を満たし、法令上の要件をクリアすれば、その企業における外国人雇用が積み重なっていく
という構造があります。
この仕組み自体が直ちに「間違い」だということではありません。
むしろ、専門的・技術的分野の外国人材を柔軟に受け入れるという点では、重要な役割を果たしてきました。
しかし、約47万6千人という規模になった現在、
「入口の質を審査しているのだから、人数については市場に任せてよい」
という従来の考え方を、今後も当然の前提としてよいのでしょうか。
私は、ここは一度立ち止まって考えるべき時期に来ていると思います。
なぜ外国人労働者の受入れを「企業任せ」にしてはならないのか
ここで、今回の問題の核心に入ります。
外国人労働者の受入れを企業の判断だけに委ねてはならない。
私は、この原則をもっと明確に打ち出す必要があると考えます。
なぜでしょうか。
それは、企業にとっての「雇用」と、国家にとっての「外国人の受入れ」は、同じものではないからです。
企業にとって、外国人を雇うことは基本的に労働契約の問題です。
必要な人材を採用する。
必要がなくなれば、法令に従って雇用関係を終了する。
もちろん、解雇には労働法上の制約があります。しかし、企業の側から見れば、最終的には「雇用関係」の問題です。
ところが、国家にとっては、それだけでは終わりません。
企業にとって「解雇」で終わる問題が、国家にとっては終わらない
外国人労働者が解雇されたからといって、その外国人が必ず日本を出国し、母国に帰るとは限りません。
在留資格の種類、在留期間、本人の生活状況、家族関係などによって、その後の在留のあり方は異なります。
また、長期間日本に在留する外国人の中には、日本社会との結びつきが強まり、生活基盤を日本に形成する人もいます。
さらに、永住者など、そもそも雇用契約が終了したからといって、日本から退去しなければならない立場ではない外国人もいます。
つまり、
企業にとっての「雇用の終了」と、国家にとっての「外国人の日本社会からの退出」は、同義ではありません。
ここを外国人政策の議論では、もっと重く考える必要があります。
外国人の受入れには「定着」という時間軸がある
外国人労働者政策を、単純な労働市場政策として考えてしまうと、この問題を見落とします。
企業が、
「今、人手が足りないから外国人を採用する」
という判断をするとき、その企業が考える時間軸は、基本的には事業経営上の時間軸です。
しかし、国家が考えなければならない時間軸は、それより長い。
外国人が日本で働き始めれば、
・日本で生活する
・日本語を学ぶ
・住居を確保する
・税や社会保険と関わる
・結婚する
・子どもを持つ
・子どもが日本の学校に通う
・地域社会との関係を築く
ということが起こり得ます。
つまり、
外国人の「就労」は、時間の経過とともに「生活」へ、さらに場合によっては「定着・定住」へと発展していく可能性があります。
これは、外国人本人にとっても、受入れ企業にとっても、そして日本社会にとっても重要な問題です。
外国人の受入れには「不可逆性」がある
ここで、さらに重要な点があります。
外国人の受入れには、「不可逆性」があります。
企業の採用判断は、基本的には可逆的です。
企業が、
「今年は100人必要だ」
と判断して100人を採用したとしても、数年後に経営環境が変われば、採用を止めることはできます。
もちろん、既に雇用した人については労働法上の制約がありますが、少なくとも企業は、今後の採用方針を変更することができます。
ところが、国家による外国人の受入れは、それほど単純ではありません。
受け入れた外国人が日本で生活し、長期間在留し、家族を形成し、子どもが日本の学校に通うようになれば、
「当初は100人必要だったが、今は必要なくなったので、100人全員帰国してもらう」
というような調整はできなくなっていきます。
在留資格ごとに法的な在留期間や更新の仕組みがあるとしても、長期在留や定着が進んだ外国人については、単純な「労働需要の増減」だけで扱うことはできません。
つまり、
企業にとっての労働需要の変化は比較的可逆的であるのに対し、外国人を日本社会に受け入れることの社会的影響は、必ずしも容易に元に戻せません。
この非対称性こそ、外国人労働者の受入れを企業だけに委ねてはならない重要な理由の一つです。
だから、外国人労働者政策は「労働政策」だけでは完結しない
外国人労働者を受け入れるとき、必要になるのは、単なる雇用政策だけではありません。
例えば、
在留管理
日本語教育
子どもの教育
税・社会保険
住宅
医療
地域社会との共生
犯罪・治安対策
不法滞在への対応
など、行政のさまざまな分野に関係してきます。
企業が外国人を採用した結果として生じ得る社会的・行政的な課題を、すべて企業だけで処理できるわけではありません。
もちろん、企業にも相応の責任を負わせるべきです。
しかし、それでも最終的に社会全体として対応しなければならない問題は残ります。
だからこそ、
外国人を受け入れるという政策を、企業の採用活動だけに委ねてよいのか。
という問いが生まれるのです。
「企業の自由」と「国家の責任」は、別の問題である
ここで誤解してほしくないのは、企業の採用の自由を否定しようとしているわけではないということです。
企業が、
「どのような人材を採用するか」
を判断することには、当然、企業経営上の合理的な理由があります。
また、外国人であることだけを理由として不合理に排除したり、逆に日本人であることだけを理由として不合理に排除したりすることについては、別途、採用段階の国籍差別の問題として考えなければなりません。
しかし、それとは別に、
「そもそも日本という国家が、外国人をどの程度、どのような条件で受け入れるのか」
という問題があります。
これは企業の採用の自由とは別次元の問題です。
企業は企業として判断する。
国家は国家として判断する。
この二つを混同してはいけません。
「企業は10年後、20年後の日本社会に責任を負うわけではない」
少し厳しい表現になりますが、私はここを明確にしておきたいと思います。
企業が外国人を採用すること自体は、企業にとって合理的な経営判断かもしれません。
しかし、
その外国人が10年後、20年後に日本社会でどのような生活をしているのか。
その人の家族が日本で暮らすことになった場合、どのような教育・行政サービスが必要になるのか。
地域社会にどのような影響が生じるのか。
仮に雇用関係が終了した後も日本に定着していた場合、誰がその問題に責任を持つのか。
これらは、企業経営だけでは処理できない問題です。
企業は、事業環境が変われば撤退することもあります。
しかし、国家は、その地域に暮らす人々と社会について「撤退」することはできません。
だからこそ、
外国人を「労働力」として受け入れるかどうかは、企業の判断だけで決める問題ではありません。
それは、
「どのような日本社会を将来つくるのか」
という国家・社会の問題でもあるのです。
では、「特定技能」についてはどう考えるべきか
ここまで述べると、
「では、特定技能も企業任せではないのか」
という疑問が出てくるでしょう。
しかし、先ほど確認したように、在留資格「特定技能」にはすでに一定の制度的な歯止めがあります。
特定技能は、「特定産業分野」に限定され、生産性向上や国内人材確保の取組を行ってもなお人材確保が困難であることを前提として外国人を受け入れる制度です。
また、分野ごとに受入れ見込数が設定され、一定の場合には受入れ停止措置を講ずる仕組みもあります。
したがって、特定技能については、
「外国人を受け入れることそのもの」を問題にするよりも、「特定産業分野」の指定が現在も妥当なのかを継続的に検証すること
が重要になります。
例えば、
・本当に国内人材では対応できないのか
・賃金・処遇の改善は十分に行われたのか
・生産性向上の余地はないのか
・女性・高齢者などの国内人材の活用努力は十分なのか
・省人化・自動化による対応は可能ではないのか
・外国人労働力への依存が恒常化していないか
といった点です。
これは後編で改めて具体的に論じたいと思います。
「質によるコントロール」から「質+量のコントロール」へ
ここまでの議論を整理しましょう。
平成元年改正入管法以降、日本は基本的に、
「どのような外国人を受け入れるのか」
を在留資格によってコントロールしてきました。
これは、「質」のコントロールです。
そして、その仕組みによって、長い間、外国人労働者の人数も間接的にコントロールされてきました。
しかし現在、「技術・人文知識・国際業務」の在留外国人数は約47万6千人に達しています。
ここまで規模が拡大した現在、
「受入れ対象となる外国人の質を審査しているのだから、人数については基本的に市場に委ねてよい」
という従来の考え方を、そのまま維持してよいのか。
私は、今こそ検討し直すべき時期に来ていると考えます。
もちろん、これは、
「外国人を受け入れるな」
という話ではありません。
また、
「47万6千人という人数は多すぎる」
と、数字だけから結論づける話でもありません。
そうではなく、
「どのような外国人を受け入れるのか」という「質」の管理に加えて、「日本社会としてどの程度の規模まで受け入れるのか」という「量」についても、国家が責任を持って検証・判断し、必要に応じて調整できる仕組みを持つべきではないか
という提案です。
つまり、
データを把握する。
↓
社会への影響を検証する。
↓
日本社会として許容できる受入れ規模を判断する。
↓
必要であれば制度を調整する。
という、検証可能で修正可能な仕組みへの転換です。
これこそが、これからの外国人政策に求められる「ルール主義」ではないでしょうか。
日本は「外国人を受け入れる国」なのではなく、「外国人をどう受け入れるかを決める国」である
私は、ここで外国人政策について、もう一つ視点を変える必要があると思います。
「日本は外国人を受け入れるべきか、受け入れるべきではないか」という二者択一で考える必要はありません。
現実には、日本はすでに多くの外国人を受け入れています。
だからこそ、これから問われるべきなのは、
「受け入れるか、受け入れないか」
だけではありません。
問われるべきなのは、
「誰を、何のために、どの程度、どのような条件で受け入れるのか」
です。
そして、そのルールを最終的に決める責任を負うのは、個々の企業ではありません。
日本国です。
企業は、自社に必要な人材を判断します。
国家は、日本社会全体にとっての必要性と許容可能性を判断しなければなりません。
この役割分担を明確にすることが、これからの外国人政策には必要なのではないでしょうか。
おわりに――「外国人を受け入れる」から、「責任をもって受け入れる」へ
平成元年改正入管法から35年余り。
日本の外国人労働者政策は、大きな転換点に来ています。
かつては、
「受入れ条件を設定して外国人の『質』をコントロールすれば、人数も間接的にコントロールできる」
という考え方が、一定程度機能しました。
私は、この制度思想を過去の失敗として否定するつもりはありません。
むしろ、当時としては合理的であり、実際に長い間機能したからこそ、現在まで制度の基本的な骨格が維持されてきたのだと思います。
しかし、約47万6千人という「技術・人文知識・国際業務」の現在の規模を前にすれば、同じ仕組みを未来永劫そのまま維持してよいのかは、別の問題です。
外国人労働者は、企業にとっては「人材」であっても、国家にとっては「日本社会で暮らす人」です。
企業にとっての雇用関係は、解雇や退職によって終わるかもしれません。
しかし、その外国人が日本に定着し、家族を形成し、子どもが日本で育ち、地域社会との関係を築いたならば、国家・社会の責任はその後も続きます。
だからこそ、
外国人労働者の受入れを、企業の労働需要だけに委ねてはならない。
そして、
「質」のコントロールだけでなく、「量」のコントロールについても、国家が責任を持って考える段階に来ている。
私はそう考えます。
ここでいう「責任をもって受け入れる」とは、単に、外国人を受け入れた企業や行政が、受け入れた外国人の生活を後から支援するという意味ではありません。
もっと根本的な意味です。
すなわち、
日本という主権国家が、主権者である国民の意思を民主的な手続きを通じて反映させながら、「日本社会として外国人をどのように、どの程度、どのような条件で受け入れるのか」という国家としての意思を形成し、その意思に基づいて受入れの制度設計を決定したうえで、外国人を受け入れる。
ということです。
もちろん、ここでいう「国民の意思」とは、外国人一人ひとりの人権や法的地位を多数決によって左右するという意味ではありません。
日本国憲法、法律、国際条約その他の法的枠組みを前提として、国民の意思を国会における立法や政府の政策決定などの民主的手続きを通じて制度に反映させる、という意味です。
外国人の受入れについて、国民がどのような政策を望むのか。
その意思を政治が受け止め、必要な政策を形成し、必要な事項については国会による立法(法律の制定)として明確なルールを定める。
そして、その法律に基づいて行政が制度を運用する。
これが、民主主義国家における「国家として責任をもって受け入れる」ということではないでしょうか。
外国人の受入れは、企業がそれぞれの経営判断によって行う採用活動だけの問題ではありません。
それによって日本社会の構成や、地域社会、教育、社会保障、治安、行政サービスなどにも影響が及び得る以上、どのような受入れを行うのかについて、最終的な責任を負うのは日本国そのものです。
そして、その「日本国」の意思を民主主義社会において最終的に担うのは、主権者である国民です。
だからこそ、外国人の受入れについて、
「企業が必要としているから受け入れる」
という順序だけではなく、
「日本社会として、どのような外国人を、どの程度、どのような条件で受け入れることが適切なのかを、国民の意思を反映した民主的な手続きを経て決定し、その決定に基づいて制度を設計・運用する」
という順序が必要なのではないでしょうか。
これは、外国人を排除するという考え方ではありません。
逆に、外国人を受け入れることを否定するものでもありません。
外国人を受け入れるのであればこそ、誰が、何のために、どの程度、どのような条件で受け入れるのかを、国家として明確に決めておく。
それが「責任をもって受け入れる」ということだと、私は考えます。
そして、ここで重要なのは、受入れを決めることだけではありません。
受入れた結果、日本社会にどのような変化が生じたのかを継続的に検証し、当初の制度設計が適切でなかったことが分かれば、必要な範囲で制度を修正する。
つまり、
「決めて終わり」ではなく、「決める → 受け入れる → 検証する → 必要なら修正する」
という循環を制度そのものに組み込むことです。
外国人政策には、いったん受け入れた人が日本で生活を始め、在留期間が長くなるにつれて、生活基盤や家族関係が日本に形成されていくという、通常の経済政策にはない「不可逆性」があります。さらに、在留期間や日本社会との結びつきなどによっては、永住許可を得るなど、日本での在留が法的にも安定した状態になることがあります。
だからこそ、後から慌てて修正するのではなく、受入れを始める前に、国家として責任を持って制度を設計しておくことが重要なのです。
では、外国人の受入れについて、国家が一定の条件や規模を設定することは、法的に可能なのでしょうか。
日本人や日本社会に定着した外国人の雇用環境を守りながら、外国人を受け入れるためには、どのようなルールが必要なのでしょうか。
そして、在留資格「技術・人文知識・国際業務」について、これまで十分に制度化されてこなかった「量」のコントロールを、どのように設計すべきなのでしょうか。
後編では、これらの問いに対する私なりの「日本版・外国人雇用ルール」の試案を提示したいと思います。

