日弁連の「国旗損壊罪反対声明」を読む――その憲法論は本当に成り立つのか【第三部・後半】自由民主主義社会における国旗と法の支配

新常識
国旗の損壊等の処罰に関する法律案

第3章 国旗は何を象徴しているのか

ここまで見てきたように、国旗に対する法的保護のあり方は国によって異なります。
しかし、多くの国に共通していることがあります。
それは、国旗は単なる「一枚の布」ではなく、国家そのものを象徴する存在として理解されているということです。
国家とは、一定の領域や政府だけを意味するものではありません。
そこには、その国の歴史や文化、憲法秩序、そして国民共同体への帰属意識など、多様な意味が重ねられています。
国旗は、そのような国家を象徴的に表した存在です。
そのため、多くの国では国旗に対する侮辱行為を、単なる物の損壊とは異なる意味を持つ行為として位置付けています。
もっとも、このことは、国旗が批判や異議申立ての対象になってはならないという意味ではありません。
民主主義社会では、国家や政府に対する批判も重要な政治的表現です。
国旗を用いた抗議活動も、その一形態となる場合があります。
したがって、この問題は、
「国家の象徴を保護すること」と「政治的表現の自由を保障すること」という二つの憲法上重要な価値の調整
として考える必要があります。
ここで重要なのは、どちらか一方だけを絶対視しないことです。
国家の象徴だから一切批判してはならないという考え方も、逆に、表現の自由である以上、国家の象徴に対するいかなる行為も一切規制できないという考え方も、自由民主主義社会における憲法論としては必ずしも一般的ではありません。
各国の制度が異なるのも、それぞれが歴史や社会状況を踏まえながら、この二つの価値の均衡点を模索してきた結果であると理解することができます。
日本においても、同じ視点から議論することが重要ではないでしょうか。

第4章 日本法の中で今回の法案をどのように位置付けるべきか

第一部では、日弁連声明の内容を確認し、第二部では、日本国憲法の基本原理や判例法理を踏まえながら、その憲法論を検討しました。
第三部ではさらに比較法と国際人権法の観点を加えてきました。
これらを総合すると、今回の法案について、少なくとも次のことはいえると考えられます。
第一に、本法案は内心そのものを処罰対象としているわけではありません。
第二部で確認したように、日本の刑法は行為主義を基本原則としており、心の中で何を思うかは処罰対象になりません。
今回の法案も、「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法により、公然と国旗を損壊し、除去し、又は汚損する」という外部に現れた行為を対象としています。
したがって、この法案について「内心そのものを処罰する法律」であると理解することは、条文の構造とは整合しないと考えられます。
第二に、本法案には表現の自由との関係で検討すべき論点が存在することも事実です。
国旗損壊行為が政治的意思表示として行われる場合には、憲法第21条との関係を検討する必要があります。
しかし、そのことは直ちに違憲となることを意味するわけではありません。
表現の自由も、他の基本的人権や公共の利益との関係で一定の制約を受け得ることは、日本国憲法の解釈や判例、そして国際人権法の考え方からも確認できます。
したがって、問題となるのは、
 「国旗を保護することが許されるか否か」ではなく、
 その保護の方法や範囲が憲法上許容される限度を超えていないか

という点です。
これは比例原則や必要最小限性などを含めた法的検討によって判断されるべき問題であり、「国旗保護」と「表現の自由」を単純に対立させるだけでは十分とはいえません。
第三に、比較法的に見ても、日本だけが特異な制度を採ろうとしているわけではありません。
前章までで確認したように、民主主義国家においても、国家象徴を一定程度刑法で保護する制度は決して例外ではありません。
もちろん、その具体的内容は国によって異なります。
しかし、その違いは、「国家象徴を保護すること自体が民主主義に反する」ということを意味するものではなく、それぞれの国が憲法秩序や歴史的背景に応じて異なる制度設計を採っている結果であると理解できます。
したがって、日本でも、
 どのような制度であれば憲法上許容されるのか
という観点から、冷静かつ具体的な議論を積み重ねることが重要であると考えられます。
憲法論とは、あらかじめ結論を決めてそれを正当化するための議論ではありません。
複数の憲法上の価値が存在する中で、それらをどのような理由に基づいて調整するのかを論理的に示す営みです。
だからこそ、この問題についても、感情や政治的立場ではなく、条文、判例、比較法、国際人権法などを踏まえた丁寧な法的検討が求められるのではないでしょうか。

第5章 外国国章損壊罪との整合性――法曹団体に求められる論理的一貫性

ここまで、憲法論、比較法、そして国際人権法という三つの視点から、国旗損壊罪法案を検討してきました。
その上で、最後に取り上げておきたい論点があります。
それは、日本の刑法には既に外国国章損壊罪(刑法第92条)が存在しているという事実です。
この規定は、外国の国旗や国章を公然と損壊・除去・汚損する一定の行為を処罰するものであり、一般には外国との友好関係や外交秩序の維持という法益を保護する趣旨であると説明されています。
もちろん、外国国章損壊罪と、今回審議されている日本国旗損壊罪法案は、立法目的も条文構造も完全に同一ではありません。
したがって、両者を全く同じ制度として論じることは適切ではないでしょう。
しかし、今回の日弁連声明が中心的な理由として掲げているのは、
「国旗損壊行為を刑罰によって規制することは、憲法第19条及び第21条に抵触するおそれが高い」
という憲法論です。

もし、この憲法論が一般論として成り立つのであれば、一つの疑問が生じます。
国家の象徴を損壊した行為を刑罰によって規制すること自体が、思想・良心の自由や表現の自由との関係で重大な憲法問題を生じさせるのであれば、その問題は日本国旗だけではなく、外国国章損壊罪についても基本的には同様に検討されるべきではないでしょうか。
もちろん、外国国章損壊罪については、「外交秩序の維持」という保護法益の特殊性を理由として説明することは可能です。
しかし、その場合であっても、
なぜ外国国章損壊罪については憲法第19条・第21条との関係が問題とならず、日本国旗損壊罪法案については「抵触するおそれが高い」と評価されるのか。
この点については、法的な論理に基づく説明が求められるように思われます。
さらに、この問題は、日弁連自身が掲げる理念との関係から見ても、検討に値する論点です。
日弁連は『人権のための行動宣言2024』において、
「外国人の人権享有主体性及び民族的少数者の固有の権利の確立のために努力し、外国にルーツを持つ人々と共生する社会の構築に積極的に寄与します。」
と宣言しています。
この理念は、多文化共生や基本的人権の尊重を目指すものとして理解することができます。
その理念自体を否定する理由はありません。
しかし、そのような理念を掲げる法曹団体であるからこそ、日本国旗と外国国章との間で憲法論の適用に差異があるのであれば、その理由を丁寧かつ論理的に説明することが期待されます。
仮に、外国国章損壊罪については憲法上の問題を特に指摘せず、日本国旗損壊罪法案についてのみ「憲法第19条及び第21条に抵触するおそれが高い」と評価するのであれば、国民の中には、
「外国の国家象徴は刑法によって保護されている一方で、日本の国家象徴についてのみ強く反対しているように見える」
という疑問を抱く人がいても不思議ではありません。
だからこそ、法曹団体には、そのような疑問に対しても、法と論理に基づいた説明を尽くす姿勢が求められるのではないでしょうか。

終章 法の支配とは、誰に対しても理由を示すことである

この三部作では、一つの法律案と、それに対する日弁連声明を題材として、憲法論と法の支配について考えてきました。
第一部では、まず相手の主張を正確に確認しました。
第二部では、その主張を憲法、刑法、判例という法律学の基本に照らして検討しました。
そして第三部では、比較法や国際人権法の視点を加え、さらに既存の外国国章損壊罪との関係も視野に入れながら考察を進めました。
その結果、改めて感じるのは、法の支配とは「結論」だけではなく「理由」によって社会を動かす原理であるということです。
民主主義社会では、政治的立場や価値観が異なることは当然です。
国旗損壊罪法案に賛成する人もいれば、反対する人もいるでしょう。
しかし、立場が異なるからこそ、自らの結論だけを示すのではなく、
 なぜその結論に至るのか。
その理由を、法的根拠に基づいて社会に説明することが重要になります。
それは、国会にも、政府にも、裁判所にも、そして法曹団体にも等しく求められる姿勢です。
法の支配とは、国家権力だけを法で拘束するという意味にとどまりません。
社会に大きな影響力を持つあらゆる主体が、自らの主張について法と論理に基づく説明責任を果たし、その説明が公開の場で検証されることも、法の支配を支える重要な営みであると考えられます。

結語 法曹への期待

日弁連は、裁判官・検察官と並ぶ法曹三者の一翼を担う、我が国を代表する法律専門家の団体です。
だからこそ、多くの国民は、個々の政策に対する賛否以前に、
「在野の法律家として、どのような法的根拠に基づいてその結論に至ったのか」
という説明を期待しています。
もちろん、法曹団体が政策に反対すること自体は何ら問題ではありません。
むしろ、人権保障の観点から積極的に意見を述べることは、その重要な社会的役割の一つです。
しかし、その意見が憲法論や法律論として社会に提示される以上、その論理は、既存の法制度や判例、憲法解釈との関係においても一貫性を備え、専門家ではない国民にも理解できるよう説明されることが望まれます。
在野の法曹がそのような姿勢を貫くとき、国民は、その政策的立場への賛否を超えて、
「さすが法律の専門家集団だ。」
という信頼を寄せることができるでしょう。
そのような信頼の積み重ねこそが、「法の支配」という理念を社会に深く根付かせる最も確かな土台になるのではないでしょうか。

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