最近、「子どもが傷つくから」という理由で、学校教育のあり方を見直す動きが各地で見られるようになりました。
通知表を廃止する学校。
順位を示さない評価。
叱るより寄り添う指導。
神奈川県茅ヶ崎市立香川小学校などでは、通知表を廃止し、三者面談や学習記録の共有へ切り替える取組が行われています。その背景には、子どもの劣等感を和らげたいという考えだけでなく、学習過程を重視した評価への転換や、教員の働き方改革など、さまざまな理由があります。
一方で、「努力する子どもの意欲が育ちにくくなるのではないか」「競争社会に適応できなくなるのではないか」といった懸念の声も少なくありません。
私は、この取組の是非そのものを論じたいわけではありません。
むしろ、この議論をきっかけに、もっと大切な問いについて考えてみたいのです。
教育とは、子どもを傷つけないことを目的とするのか。
それとも、傷ついても立ち直れる力を育てることを目的とするのか。
昔の教育は、厳しさに偏り過ぎていた
まず確認しておきたいことがあります。
昔の学校には、決して肯定できない指導もありました。
人前で過度に叱責する。
劣等感を利用して競わせる。
恥をかかせることで努力を促そうとする。
こうした指導が子どもの人格を傷つけ、自信を失わせることがあったのは事実です。
その反省から、「子どもの心を大切にする教育」が重視されるようになったこと自体は、教育の前進だったと言えるでしょう。
しかし、教育の振り子は、今度は反対側へ振れ過ぎてはいないでしょうか。
「傷つけないこと」が教育の目的になっていないか
ここで考えたいことがあります。
私たちは、「子どもを傷つけないこと」と、「子どもを成長させること」を、いつの間にか同じものだと思い込んではいないでしょうか。
現実社会には評価があります。
試験には点数があります。
採用試験には合否があります。
スポーツには順位があります。
コンクールには優劣があります。
社会人になれば、人事評価もあります。
これらは人格を否定するためではありません。
一定の基準に基づいて、その時点での成果や到達度を評価するために存在しています。
だからこそ、教育が「傷つかないこと」だけを目標にしてしまえば、子どもたちは社会に出て初めて、本格的な評価や失敗に直面することになります。
そのとき受ける挫折は、学校で経験する一時の悔しさより、はるかに大きなものになるかもしれません。
「傷つくこと」と「傷つけること」は違う
私は、「傷つくこと」と「傷つけること」は区別して考える必要があると思います。
試験で思うような点数が取れず悔しい思いをすること。
試合に負けること。
第一志望に届かないこと。
努力した結果が期待どおりにならないこと。
こうした経験は、誰にとってもつらいものです。
しかし、それは人生の中で避けて通れるものではありません。
一方で、人を侮辱すること、人格を否定すること、必要以上に辱めることは、「傷つけること」です。
これは教育が決して許してはならないことです。
教育が目指すべきなのは、
「現実は伝える。しかし人格は傷つけない。」
という姿勢ではないでしょうか。
評価は必要です。
しかし、その評価を人格否定に結び付けないことも、同じくらい重要です。
学校だけでは「傷つかない子」は育てられない
もう一つ、忘れてはならないことがあります。
子どもは学校だけで生きているわけではありません。
家庭があります。
地域があります。
スポーツクラブがあります。
習い事があります。
そして、今の時代にはSNSがあります。
学校の外でも、人は傷つきます。
さらに学校の中であっても、教師の目が届かない休み時間や放課後、子ども同士の世界では、さまざまな出来事が起こります。
つまり、学校だけが「傷つかない空間」をつくろうとしても、それだけで子どもを守ることはできません。
学校教育だけで「傷つかない子」を育てようとする教育には、おのずから限界があります。
教育にできることは、傷つくことそのものをなくすことではありません。
傷ついたとき、どう受け止めるか。
どう立ち直るか。
そして、他人を傷つけない人になるにはどうすればよいか。
そうした力を育てることこそ、教育の大切な役割ではないでしょうか。
「傷つけない教育」なら、まず取り組むべきことがある
ここで、私は一つ疑問を感じます。
もし学校教育の目的が、本当に「子どもを傷つけないこと」にあるのだとすれば、学校が最も力を注ぐべきものは何でしょうか。
私は、通知表をなくすことではないと思います。
本当に子どもを深く傷つけるものは何でしょう。
それは、いじめです。
仲間外れ。
無視。
暴力。
人格否定。
SNSでの誹謗中傷。
こうした経験は、通知表の評価とは比べものにならないほど深い傷を子どもの心に残します。
もちろん、多くの学校や先生方が真剣にいじめ問題へ取り組んでおられることは承知しています。
しかし、いじめによる重大事態が後を絶たず、「もっと早く対応できなかったのか」「なぜ見逃されたのか」という事案が繰り返し報じられている現実を見ると、学校全体として、なお改善すべき課題が残されていると言わざるを得ません。
「傷つけない教育」を掲げるのであれば、学校はまず、人が人を傷つける現実に真正面から向き合い、その防止に最大限の力を注ぐべきではないでしょうか。
おわりに
教育とは、子どもを傷つけないことなのでしょうか。
それとも、傷ついても立ち上がれる力を育てることなのでしょうか。
私は、後者だと思います。
人生から失敗をなくすことはできません。
評価をなくすこともできません。
挫折をなくすこともできません。
しかし、失敗から学ぶことはできます。
悔しさを努力へ変えることもできます。
そして、傷ついた人の痛みを知ることで、他人を傷つけない人へと成長することもできます。
教育とは、「傷つかない子」を育てることではありません。
傷ついても立ち上がる力を育て、同時に、自分も他人も大切にできる人を育てることです。
だからこそ、「傷つくこと」と「傷つけること」は混同してはならないのです。
教育が本当に防がなければならないのは、評価によって生まれる一時の悔しさではありません。
人の尊厳を踏みにじる「傷つけること」です。
通知表を残すか、廃止するか。
その結論は学校ごとに異なってもよいでしょう。
しかし、その議論の前に、私たちはもう一度、教育の原点に立ち返る必要があるのではないでしょうか。
教育とは何のためにあるのか。
その問いこそが、通知表の有無よりも、はるかに大切なのだと思います。

