もし、あなたがコンビニで買い物をしているとき、突然、刃物を持った人間が現れたら……
その場に駆け付けた警察官に、あなたは何を期待するだろうか。
「絶対に発砲するな」と願うだろうか。
それとも、自分や周囲の人々の命を守るために、必要であれば武器を使ってでも犯人を制圧してほしいと願うだろうか。
熊本県で起きたコンビニ強盗事件では、刃物を持った犯人に対し、警察官が拳銃を発砲した。
発砲が適法だったかどうかは、法治国家である以上、所定の手続に従って検証される。それは当然であり、必要なことである。
しかし、このような事件が起きるたびに、私は一つ気になることがある。
それは、一部の報道が、現場で何が起きていたのかよりも、「警察官が発砲した」という事実そのものを強く印象づけているように感じられることである。
もちろん、違法な発砲や過剰な武器使用は厳しく検証されなければならない。
だが、それと同じくらい大切なのは、「なぜ発砲せざるを得なかったのか」という現場の状況を、国民が正しく理解することである。
警察官もまた、一人の国民である
私たちは、ともすると「警察」と「国民」を別の存在のように考えてしまう。
しかし、警察官もまた、私たちと同じ社会で暮らす一人の国民である。
家族があり、友人があり、明日も無事に家へ帰ることを願っている、一人の人間である。
もし将来、SF映画のように人工知能を備えたロボット警察官が実現するなら話は別かもしれない。
しかし、現実にはそうではない。
危険な現場へ向かうのは、私たちの社会で暮らす「誰か」である。
消防士も、救急隊員も、海上保安官も、自衛官も、そして警察官も、機械ではない。
私たちと同じ人間なのである。
だからこそ、制度は法律だけでは成り立たない。
制度は、それを担う「人」がいて初めて機能する。
そして、その人が安心して職務を果たせる環境があってこそ、制度は本来の役割を果たすことができる。
武器使用は「特権」ではなく、社会から託された責務である
近年、日本でも、警察官自身や国民の生命・身体に重大な危険を及ぼす凶悪事件が、以前より目立つようになってきた。
その結果、警察官が武器を使用せざるを得ない場面も、昔より増えてきた。
残念なことではあるが、社会情勢の変化を考えれば、ある程度は避けられない現実でもある。
相手が刃物や銃器などの凶器を持ち、あるいはその身体能力や武術等を背景として、人の生命・身体に重大な危害を加える現実的かつ切迫した危険があるとき、警察官は、国民を守るためだけでなく、自らの生命・身体を守るためにも、法律の範囲内で武器を使用せざるを得ない場合がある。
それは警察官だけに与えられた特権ではない。
社会が警察官に託した責務を果たすために、法律が認めた権限なのである。
半世紀前の事件が残した問い
この問題を考える上で、忘れてはならない事件がある。
1970年に発生した瀬戸内シージャック事件である。
散弾銃を持った犯人は旅客船を乗っ取り、多くの人命を危険にさらした。
最終的に警察官が犯人を狙撃し、犯人は死亡した。
ところが、その警察官は殺人罪で起訴された。
最終的には無罪が確定したものの、この出来事は警察関係者に大きな衝撃を与えた。
適法な武器使用であっても、自らが刑事責任を問われるかもしれない。
そのような萎縮効果を生んだと指摘する声は、今でも少なくない。
ニュースで発砲だけを伝えて、本当に十分なのか
もちろん、警察官による武器使用は厳格に検証されなければならない。
しかし、犯人が死亡した事案でもないにもかかわらず、「警察官が発砲した」という事実だけを大きく報じ、現場の危険性や、発砲に至る経緯を十分に伝えない報道が続けば、国民は「発砲したこと自体が問題なのだ」という印象を持ちかねない。
そのような風潮は、適法な武器使用まで萎縮させるおそれがある。
そして、その結果として危険にさらされるのは、警察官だけではない。
その場に居合わせた店員であり、買い物客であり、私たち国民なのである。
おわりに
私は、「発砲をためらわない社会」を目指すべきだと言いたいのではない。
目指すべきなのは、
適法な発砲は不当に萎縮させず、違法・過剰な発砲は厳しく検証する社会である。
それが法治国家のあるべき姿だと思う。
そして、もう一つ忘れてはならないことがある。
警察官は国家という機械ではない。
私たちと同じ社会で暮らす、一人の人間である。
その人が安心して職務を果たせる社会でなければ、私たちも安心して暮らすことはできない。
警察官の安全を守ることは、警察官だけを守ることではない。
それは、社会全体の安全を守ることなのである。

