日本で暮らす外国人が増えるにつれて、これまであまり意識されてこなかった文化や宗教上の違いが、私たちの日常生活の中で具体的な問題として現れるようになっています。
その一つが、イスラム教徒(ムスリム)の葬送をめぐる「土葬」の問題です。
この問題については、
「宗教上必要なのだから、認めるべきだ」
という意見がある一方で、
「日本では火葬が一般的なのだから、受け入れるべきではない」
という意見もあります。
しかし、私は、この問題を単純な「賛成か反対か」で考えるべきではないと思います。
大切なのは、
外国人の文化・宗教だから、制度を変えるのか。
あるいは、
外国人の文化・宗教だから、制度を変えないのか。
という二者択一ではありません。
問うべきなのは、
「その制度変更が、日本社会全体にとって必要なのか、合理的なのか」
ということです。
そして、その判断は、感情ではなく、法と合理性、そして民主的な手続に基づいて行うべきです。
土葬問題は、単に葬送方法の問題ではありません。
文化や宗教の違いと、日本社会の法秩序や基本的なルールを、これからどのように調整していくのか。
そのことを考えるための、具体的な事例でもあるのです。
- 日本では火葬が主流だが、土葬そのものが禁止されているわけではない
- ムスリムにとって、土葬には宗教的な意味がある
- 「宗教だから認める」でも、「宗教だから認めない」でもない
- 日本のルールを共有することと、文化を否定することは違う
- 外国人にも、日本社会の一員としての「責務」がある
- 日本社会の側にも果たすべき役割がある
- 土葬問題で問われているのは、「文化の勝ち負け」ではない
- 制度を変えるなら、日本社会全体の問題として考える
- 「受け入れ側」と「外国人側」を分けすぎない
- 「棲み分け」ではなく、一つの日本社会におけるルールに基づく調整
- 「多文化共生」という言葉から、一歩先へ
- 土葬問題から見えてくる「秩序ある参加」
- おわりに――感情ではなく、ルールと責務で考える
日本では火葬が主流だが、土葬そのものが禁止されているわけではない
まず、法律上の事実を整理しておきましょう。
日本では現在、火葬が圧倒的に一般的です。
都市化、人口集中、土地利用、衛生面への配慮など、さまざまな事情が重なって、長い時間をかけて火葬中心の葬送文化が形成されてきました。
そのため、現在の日本社会では、墓地や葬儀、納骨なども火葬を前提としたものが多く、土葬を行うための環境は限られています。
ただし、ここで重要な点があります。
日本の法律は、土葬そのものを禁止しているわけではありません。
「墓地、埋葬等に関する法律」は、「埋葬」と「火葬」の双方を制度上予定しています。
同法は、埋葬を「死体を土中に葬ること」と定義し、埋葬や焼骨の埋蔵は墓地以外では行ってはならないこと、埋葬や火葬には市町村長の許可が必要であること、墓地の経営には許可が必要であることなどを定めています。
したがって、
「日本では土葬が法律で禁止されている」
という理解は正確ではありません。
問題は、土葬そのものが違法かどうかではなく、
どのような条件の下で土葬を行うことが、日本の法制度や公衆衛生、土地利用、周辺環境などとの関係で認められるのか
ということです。
この点を正確に理解することが、冷静な議論の出発点になります。
ムスリムにとって、土葬には宗教的な意味がある
イスラム教では、遺体を火葬せず、土に葬ることが重要な宗教的意味を持っています。
したがって、ムスリムが日本で土葬を希望することは、単なる「外国の風習を日本に持ち込む」という話ではありません。
本人にとって信仰上重要な意味を持つ場合があることは、まず理解しておく必要があります。
一方で、ここから直ちに、
「宗教上必要なのだから、日本社会はそれを無条件に認めなければならない」
という結論になるわけでもありません。
日本国憲法は信教の自由を保障しています。
ただし、信教の自由のうち、外部的行為として現れる宗教的行為については、絶対無制限のものではなく、公共の福祉の観点から必要かつ合理的な制約を受け得るとされています。最高裁判例も、規制の目的や必要性、制約される自由の性質、具体的な規制の態様・程度などを踏まえて判断すべきものとしています。
つまり、
信教の自由を尊重することと、社会生活上のルールを適用することは、必ずしも対立するものではありません。
重要なのは、「宗教だから認める」「宗教だから認めない」と一律に決めるのではなく、具体的な問題について、法的に何が求められているのかを丁寧に考えることです。
「宗教だから認める」でも、「宗教だから認めない」でもない
ここが、この問題を考えるうえで最も重要なところです。
土葬をめぐる議論では、
「宗教の自由なのだから認めるべきだ」
という主張と、
「日本では火葬が普通なのだから認めるべきではない」
という主張が対立しがちです。
しかし、私は、この二つの考え方だけでは不十分だと思います。
なぜなら、どちらも、
「外国人の文化や宗教を基準に、制度を変えるか変えないか」
という構図になってしまうからです。
そうではありません。
考えるべきなのは、
その制度やルールが、日本社会全体にとって合理的なものなのか。
そして、
それを変更することが、日本社会全体にとって必要なのか。
ということです。
たとえば、土葬によって公衆衛生上の問題が生じるのであれば、その問題を具体的に検証する必要があります。
地下水などへの影響が問題になるのであれば、科学的な根拠に基づいて検討する必要があります。
土地利用や墓地の管理に問題があるのであれば、それも具体的に考えなければなりません。
逆に、適切な場所と管理方法を確保することで問題を回避できるのであれば、
「外国人の宗教だから」
という理由だけで一律に排除することも適切ではありません。
つまり、
「外国人の文化だから、制度を変える」でもない。
「外国人の文化だから、制度を変えない」でもない。
「その制度変更が、日本社会全体にとって必要なのか」を、法と合理性と民主的な手続によって判断する。
私は、これを基本的な考え方とすべきだと思います。
日本のルールを共有することと、文化を否定することは違う
外国人の日本社会への参加を考えるとき、
「日本のルールを守れというのは、外国人に日本文化への同化を求めることではないか」
という議論があります。
しかし、これは別の問題です。
日本社会で暮らす以上、日本の法律や社会生活上の基本的なルールを共有することは、外国人だけに求められる特別な負担ではありません。
日本人も同じルールの下で生活しています。
一方で、
同じルールを共有することと、同じ文化になることは違います。
文化、宗教、生活習慣などには、人それぞれの違いがあります。
それらが日本の法秩序や公共の秩序に反しない限り、互いに理解し、尊重することが大切です。
したがって、「日本人も外国人も、日本社会のルールを共有する」ことと、「外国人の文化や宗教を否定する」ことを同じものとして考える必要はありません。
むしろ、
法秩序は共有する。文化的な違いは尊重する。
この二つを同時に成立させることが重要なのです。
外国人にも、日本社会の一員としての「責務」がある
もちろん、日本社会の側だけに配慮を求めることも適切ではありません。
日本で暮らす外国人にも、日本社会の一員として果たすべき責務があります。
日本の法律を理解し、守る。
社会生活上の基本的なルールを理解する。
地域社会の中で生活する以上、周囲への配慮をする。
必要な行政手続を適切に行う。
そして、自らの権利を行使すると同時に、その権利が他者の権利や社会全体の利益と無関係ではないことを理解する。
こうしたことは、「外国人だから特別に我慢しろ」という話ではありません。
むしろ、
日本社会の一員として権利を行使する以上、その一員としての責務も担う。
という、社会の基本的な考え方です。
ここでいう「責務」は、誰かに問題が起きたときの「責任追及」という意味ではありません。
社会の一員として、権利とともに担うべき役割という意味です。
日本社会の側にも果たすべき役割がある
ただし、ここで誤解してはいけないことがあります。
「外国人が日本社会に参加する以上、日本に合わせてもらえばよい」
という一方通行の話ではありません。
日本社会の側にも、果たすべき役割があります。
日本語を学び、日本の制度や社会のルールを理解しようとする外国人が、日本社会の一員として生活できる環境を整えること。
必要な情報を提供すること。
行政手続を分かりやすくすること。
合理的な範囲で必要な調整を行うこと。
そして、国籍や文化の違いだけを理由として、不当に排除しないこと。
こうしたことも必要です。
つまり、
外国人だけが一方的に日本社会に合わせるのでもない。
日本社会だけが一方的に外国人の要求に合わせるのでもない。
それぞれが、社会の一員として果たすべき責務を担う。
そのうえで、日本の法秩序と社会生活上の基本的なルールを共有する。
これが、「一つの日本社会を共に生きる」ということだと思います。
土葬問題で問われているのは、「文化の勝ち負け」ではない
土葬問題を、
「日本文化とイスラム文化のどちらを優先するのか」
という問題にしてしまうと、議論は不必要に対立的になります。
しかし、本来そういう問題ではありません。
土葬を希望するムスリムの側には、宗教上の理由があります。
一方、日本社会には、公衆衛生、墓地、環境、土地利用、地域住民の生活などについて考えるべき事情があります。
この二つを、
「どちらが正しいか」
という一つの価値観の勝負にしてしまう必要はありません。
必要なのは、
どのような条件なら、双方の利益をできるだけ両立できるのか。
という具体的な検討です。
たとえば、
・土葬を行う場所の適切性
・地下水などへの影響
・墓地の管理体制
・周辺環境への影響
・地域住民への説明
・行政上の許可や監督
・将来の管理責任
などを、一つずつ検討する必要があります。
その結果、
「一定の条件を満たせば可能」
という結論になる場合もあるでしょう。
逆に、
「この場所、この条件では認めることができない」
という結論になる場合もあるでしょう。
重要なのは、どちらの場合も、
「外国人だから」ではなく、具体的な理由に基づいて判断することです。
制度を変えるなら、日本社会全体の問題として考える
ここに、今回の土葬問題から考えておきたい重要な原則があります。
仮に、今後、日本社会の中で土葬の需要が増え、現在の制度や運用について見直しが必要になったとします。
そのとき、
「外国人が増えたから、外国人のために制度を変える」
という説明だけでは不十分です。
法律や制度は、日本社会全体のルールだからです。
制度を変更するのであれば、
「その変更は、日本社会全体にとって必要なのか」
を考えるべきです。
そして、必要であると判断するなら、その必要性を国民に説明し、民主的な手続によって決定する。
これは外国人を排除する考え方ではありません。
むしろ、外国人を特別な存在として扱うのではなく、
日本社会全体のルールを、日本社会全体の問題として考える
ということです。
外国人の文化や宗教を尊重することは大切です。
しかし、だからといって、その文化や宗教に合わせて日本の制度を変更することが当然になるわけではありません。
同時に、日本社会の従来の慣行だからというだけで、変更の必要性を検討することさえ拒むのも適切ではありません。
必要性があるのか。
合理性があるのか。
他の人々の権利や利益との調整は可能なのか。
こうした観点から判断すべきなのです。
「受け入れ側」と「外国人側」を分けすぎない
ここまでの議論を踏まえると、「受け入れ側」と「外国人側」という二つの立場を固定的に分けて考えることにも注意が必要です。
もちろん、日本人と外国人では、国籍や在留資格などによって法的な立場が異なる場合があります。
しかし、日本で暮らしている外国人は、日本社会の外側にいる人々ではありません。
地域で生活し、働き、学び、子どもを育て、近隣の人々と関わりながら暮らしているのであれば、その人々もまた、日本社会の中で生活する一人ひとりです。
だからこそ、
「日本人が外国人を受け入れる」
という一方向の関係だけで考えるのではなく、
「一つの日本社会の中で、それぞれがどのような権利と責務を担うのか」
という視点が重要になります。
土葬問題も同じです。
「日本人がムスリムを受け入れるかどうか」
だけではありません。
日本社会の中で、宗教的な葬送の希望と、社会全体のルールや利益をどう調整するのか。
そう考えることで、問題の見え方が変わってきます。
「棲み分け」ではなく、一つの日本社会におけるルールに基づく調整
以前の私は、この問題を「棲み分け」という言葉で表現していました。
しかし、今は、この言葉は適切ではないと考えています。
「棲み分け」という言葉には、日本人の社会と外国人の社会を分け、それぞれが別々に暮らすというニュアンスが生じる可能性があるからです。
私が目指したいのは、そういう社会ではありません。
日本社会という一つの社会があり、その中で、日本人も外国人も暮らしている。
そのうえで、文化や宗教の違いがある場合には、
一つの日本社会の中で、ルールに基づいて調整する。
これが基本です。
土葬についても、
「ムスリムのための特別な社会をつくる」
ということではありません。
日本の法律や制度を前提として、必要な場合には合理的な調整を行う。
その調整が必要なのかどうかも、日本社会全体の観点から判断する。
「多文化共生」という言葉から、一歩先へ
私はこれまで、政府や地方自治体が外国人施策の方針や理念を示す際に「多文化共生」という言葉を用いてきたことを踏まえ、その言葉を使って外国人政策の問題を論じてきました。
しかし、これは、私自身が「多文化共生」という考え方に盲目的あるいは積極的に賛同していたという意味ではありません。
むしろ、これまで「多文化共生」という言葉を使ってきたからこそ、あらためて、その言葉が何を意味するのか、そして、それを外国人政策の基本的な考え方として使い続けることが適切なのかを問い直したいのです。
「多文化共生」という言葉からは、ともすると、
「日本文化」と「外国文化」という別々の文化集団が存在し、その違いを認め合いながら共に暮らす、
というイメージが生まれます。
しかし、私が現在考えているのは、それとは少し違います。
日本社会という一つの社会を、国籍の異なる人々が共に生きる。
その中で、
法秩序は共有する。
基本的な社会ルールも共有する。
文化、宗教、生活習慣の違いは尊重する。
そして、
必要な制度変更があるなら、それが日本社会全体にとって必要なのかを、民主的に判断する。
これが、私が考える「共生」の基本的な姿です。
その意味で、私は今、
「多文化共生」から「外国人の日本社会への秩序ある参加」へ。
という考え方を提案しています。
土葬問題から見えてくる「秩序ある参加」
この考え方から土葬問題を改めて見ると、何が見えてくるでしょうか。
まず、ムスリムの方々が土葬を希望する宗教的理由を理解する。
これは大切です。
同時に、日本の法制度や社会生活上の基本的なルールを尊重する。
これも大切です。
そして、日本社会の側も、宗教的な違いを理由として一律に排除するのではなく、具体的な問題が何なのかを検証する。
必要な調整が可能なら、その可能性を検討する。
しかし、制度を変更するのであれば、
「外国人のためだから」
という理由だけではなく、
「その変更が日本社会全体にとって必要であり、合理的なのか」
という視点から判断する。
これが重要なのです。
つまり、
外国人の文化を尊重することと、日本社会のルールを守ることは両立できます。
そして、
日本社会のルールを守ることと、外国人の文化や宗教を否定することも、同じではありません。
この二つを対立させる必要はありません。
おわりに――感情ではなく、ルールと責務で考える
土葬問題は、単なる葬送方法の問題ではありません。
日本社会において、文化や宗教の違いをどのように受け止めるのか。
日本の法秩序と社会の基本的なルールを、どのように共有するのか。
そして、制度を変更する必要がある場合、誰のために、何を根拠として変更するのか。
そうした問題を考える材料になります。
私は、外国人の文化や宗教を排除する社会を望んでいるわけではありません。
同時に、外国人の文化や宗教を理由として、日本社会が一方的に制度やルールを変更し続ける社会を望んでいるわけでもありません。
大切なのは、その中間で曖昧に妥協することではありません。
一つの日本社会の中で、共通の法秩序と基本的な社会ルールを共有し、そのうえで文化や宗教の違いを尊重すること。
そして、制度を変更する必要があるなら、
その必要性と合理性を、日本社会全体の問題として検討すること。
その判断を、感情ではなく、法と合理性、そして民主的な手続に基づいて行うことです。
改めて、この原則を明確にしておきたいと思います。
「外国人の文化だから、制度を変える」でもない。
「外国人の文化だから、制度を変えない」でもない。
「その制度変更が、日本社会全体にとって必要なのか」を、法と合理性と民主的な手続によって判断する。
これこそが、外国人との共生を考える際に必要な「日本版ルール主義」の一つの具体的な姿ではないでしょうか。
そして私は、これからの外国人政策を考えるとき、
「多文化共生」という抽象的な言葉だけに頼るのではなく、
「外国人の日本社会への秩序ある参加」
という、より具体的な視点から、一つひとつの問題を考えていきたいと思います。
土葬問題も、その一つです。
文化や宗教の違いを尊重しながら、しかし法秩序と社会の基本的なルールを曖昧にしない。
外国人にも日本社会の一員としての権利と責務を担ってもらう。
そして日本社会の側も、必要な受入れ環境を整える。
その積み重ねによってこそ、
「一つの日本社会を、国籍の異なる人々が共に生きる」
という、本当の意味での「外国人の日本社会への秩序ある参加」が実現していくのではないでしょうか。
