- はじめに――「外国人との共生」は、いつの間に日本社会の前提になったのか
- 平成30年、「受入れ」と「共生」が一体の政策目標になった
- 「移民ではない」という説明だけでは、国民に対する説明にならない
- 国民が本当に知りたいのは「私たちは、どんな日本をつくるのか」
- そして、「なぜ共生社会を目指すのか」という説明も必要だった
- 「共生社会」は、国民が選択したのか
- 「気づいたら前提になっていた」という問題
- 平成30年以降、「共生」は政策として積み上げられてきた
- だからこそ、「共生社会の強制」という国民の不満を軽視してはならない
- 政府に問いたい――「国民には知らせる必要はない」のですか
- 「日本版ルール主義」から見れば、政府にも守るべきルールがある
- 私は「共生」の必要性を否定しているのではない
- 「秩序ある共生社会」を、本当に日本社会が選択するなら
- おわりに――「共生」を進めるなら、まず国民との共生から
はじめに――「外国人との共生」は、いつの間に日本社会の前提になったのか
「外国人との共生社会を実現する」。
今では、政府の外国人政策を語る上で、極めて当然の政策目標になっています。
しかし、ここで私は、一つの根本的な問いを投げかけたいと思います。
その「共生社会」という日本社会の将来像を、主権者である国民は、いつ、どのような説明を受けた上で選択したのでしょうか。
これは、「外国人を受け入れるべきか、受け入れるべきではないか」という単純な二択の話ではありません。
また、私は、平成30年に政府が外国人材の受入れ拡大に踏み切った政策判断について、
「政府は何も考えず、外国人を受け入れた」
などと批判しているのでもありません。
むしろ問題は、その逆です。
政府は制度を設計し、法改正を行い、外国人材を受け入れ、さらに、その結果として必要となる「共生社会」の実現を政策として推進してきました。
だからこそ問いたいのです。
その政策によって、日本社会をどのような社会にしていこうとしているのかを、政府は主権者である国民に十分かつ正面から説明してきたのでしょうか。
平成30年、「受入れ」と「共生」が一体の政策目標になった
平成30年12月25日、政府は「外国人材の受入れ・共生に関する関係閣僚会議」において、「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」を決定しました。
そこでは、外国人材を適正に受け入れ、共生社会の実現を図ることによって、日本人と外国人が安心・安全に暮らせる社会の実現を目指すという基本的な方向性が示されました。
これは、日本の外国人政策を考える上で、一つの大きな転換点だったと私は考えています。
なぜなら、この時期には、平成31年4月から施行される新たな在留資格「特定技能」の創設が予定されていたからです。
つまり、
外国人材を適正に受け入れることと、その外国人が日本社会で生活していくための「共生」の環境を整備することを、一体の政府政策として明確に位置付けた
わけです。
私は、この政策理念そのものを否定しているのではありません。
外国人を一定規模で受け入れるのであれば、その受入れに伴って生じる教育、医療、住宅、日本語、地域社会、行政サービスなどの問題に政府が責任を持って対応することは、当然必要です。
問題は、その先にあります。
「移民ではない」という説明だけでは、国民に対する説明にならない
日本政府は長年、「日本は移民政策を採っていない」と説明してきました。
この説明には、制度上・法政策上の意味があります。
しかし、国民主権という観点から考えるなら、それだけでは十分ではありません。
国民が知りたいのは、
「法律上、移民政策という名称を使っているか」
だけではないからです。
本当に重要なのは、
「この制度を長期間運用すると、日本社会はどうなるのか」
ということです。
外国人を「最初から移民として受け入れる制度」ではなかったとしても、適法な在留を継続する外国人が増えれば、その中から日本に長期間居住する人が生まれます。
家族を形成する人もいます。
子どもが日本の学校に通うこともあります。
地域社会との長期的な関係を形成する人もいます。
つまり、
「移民政策ではない」という制度上の説明と、「結果として日本社会に長期的に定着する外国人が生じ得る」という社会的現実は、両立します。
であれば政府は、こう説明すべきだったのではないでしょうか。
「最初から移民として受け入れる制度ではありません。しかし、適法な在留の継続を通じて、結果として日本に長期的に定住し、家族を形成し、地域社会の一員となる外国人が生じることは想定されます。」
これは、外国人受入れに反対する説明ではありません。
むしろ、政策の実態を国民に正直に伝えるための説明です。
国民が本当に知りたいのは「私たちは、どんな日本をつくるのか」
さらに重要なのは、その次の問いです。
「私たちは、これからどのような日本社会をつくろうとしているのか」
外国人材の受入れを拡大する。
そして、その外国人が日本で生活する。
その結果、地域社会の構成が変化する。
日本語教育の需要が増える。
学校、医療、住宅、行政サービスにも影響する。
外国人が長期定住すれば、家族や子どもの問題も生じる。
これは、もはや単なる「人手不足対策」ではありません。
日本社会そのものの将来像に関わる問題です。
だからこそ、本来なら政府は国民に対して、
「私たちは、外国人を一定程度受け入れることによって、こういう日本社会をつくろうとしています。」
と説明するべきだったのではないでしょうか。
ところが、これまでの政府の説明は、どうしても個々の制度や個別施策の説明に分断されがちでした。
特定技能。
技能実習。
留学生。
日本語教育。
多文化共生。
生活支援。
在留管理。
不法就労対策。
それぞれについての説明はあります。
しかし、それらを全部つなげたとき、
「結果として、どのような日本社会をつくることになるのか」
という全体像について、国民に正面から説明してきたでしょうか。
私は、ここに大きな疑問を持っています。
そして、「なぜ共生社会を目指すのか」という説明も必要だった
もう一つ、重要な問いがあります。
「なぜ日本は共生社会を目指すのか」
です。
平成30年の総合的対応策は、「外国人材の適正な受入れ」と「共生社会の実現」を一体の政策目標として掲げました。
その方向性には、私は合理性があると思います。
外国人を受け入れるのであれば、外国人を孤立させず、日本人と外国人が安全・安心に暮らせる社会をつくる必要があるからです。
しかし、その政策理念についても、政府は国民にもっと正面から説明すべきでした。
例えば、
「外国人を受け入れる以上、地域社会との摩擦を放置するわけにはいきません。」
「日本語を理解してもらい、日本の法律や制度、社会のルールを理解してもらう必要があります。」
「同時に、日本人側にも外国人と共に暮らすための理解と対応が必要になります。」
「それによって、外国人を社会から孤立させず、日本人と外国人の双方が安心して暮らせる社会を目指します。」
――このように説明すればよかったのです。
つまり、「共生」とは単なる美しい理念ではなく、外国人を受け入れるという政策判断から必然的に生じる社会政策上の課題への対応なのだと。
「共生社会」は、国民が選択したのか
ここで、最も重要な問題に入ります。
民主主義国家である日本では、日本国憲法の三大基本原則の一つとして国民主権主義が採用されています。
もちろん、すべての行政政策について、個別に国民投票を行わなければならないという意味ではありません。
政府が政策を実施するたびに、必ず国政選挙で直接承認を受けなければならない、という法的ルールでもありません。
しかし、それでもなお、
国家の将来像そのものを左右するような政策について、主権者である国民が十分な情報を与えられ、その是非を政治的に判断できる環境が確保されていたのか
という問いは、民主主義の観点から当然に提起されるべきです。
外国人政策について言えば、
どの程度受け入れるのか
どの分野で受け入れるのか
長期的な定住をどこまで想定するのか
日本語教育をどうするのか
地域社会の負担をどうするのか
どこまで社会統合を求めるのか
日本社会の何を守り、何を変えるのか
こうした問題は、決して一部の行政機関だけで完結する問題ではありません。
日本社会の将来像そのものに関わる問題です。
であるならば、本来は国民に対して、もっと正面から説明されるべきでした。
そして政党も、もっと明確な政策として国民に示し、国政選挙を通じて政治的判断を仰ぐべきだったのではないでしょうか。
「気づいたら前提になっていた」という問題
私が最も問題だと思うのは、ここです。
ある日突然、
「日本は移民国家になります」
と宣言されたわけではありません。
しかし、
外国人労働者が増える。
在留資格が拡充される。
長期滞在者が増える。
家族を伴う外国人も増える。
地域社会との接点が増える。
そして、その結果として「共生社会」の実現が政策目標になる。
こうして一つ一つの政策を見れば、それぞれに理由があります。
しかし、それらを長い時間軸でつなげて見ると、
日本社会の姿そのものが変化していく。
ところが、
「このような変化を日本社会が選択した」という明確な政治的合意が形成されたことを示す事実は、どこにあるのでしょうか。
少なくとも、「国民が十分な説明を受け、その上でこのような日本社会を明確に選択した」という実感を持っている国民が過半数を超えていることを裏付ける根拠は、私には見当たりません。
むしろ、
「自分たちは、外国人受入れの拡大と、それに伴う『共生社会』の実現をセットで選択したのだ」
と認識している国民が、社会の多数派であるとは到底考えにくいのではないでしょうか。
ここにこそ、これまでの外国人政策における民主的正統性の弱さが表れているのではないかと思います。
平成30年以降、「共生」は政策として積み上げられてきた
そして重要なのは、平成30年の政策が一度きりで終わったわけではないことです。
「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」は、その後も改訂が重ねられてきました。
さらに令和4年には、「外国人との共生社会の実現に向けたロードマップ」が策定され、その後も変更が重ねられています。
つまり、「共生」は単なる一時的な掛け声ではありません。
政府が継続的に制度化し、施策として積み上げてきた政策目標なのです。
そして現在も、その流れは終わっていません。
令和8年には、新たに「外国人の受入れ・秩序ある共生のための総合的対応策」も決定されました。
ここまで来れば、もはや、
「共生」という言葉をどう捉えるか
だけの問題ではありません。
「政府が、どのような日本社会をつくろうとしているのか」
という国家の基本的な方向性の問題です。
だからこそ、「共生社会の強制」という国民の不満を軽視してはならない
もちろん、「外国人との共生社会」という理念そのものを「共生社会の強制」と呼ぶことには、慎重であるべきだと思います。
外国人と日本人が安全・安心に暮らせる環境を整えること自体は、外国人を受け入れる国家にとって必要な政策だからです。
しかし、
「なぜこの政策を進めるのか」
「どこまで進めるのか」
「その結果、日本社会をどうしていくのか」
について国民への説明が十分でなければ、行政が「共生」という政策目標を掲げ、それを社会に向けて一方的に推進しているように見えてしまいます。
その結果、
「これは多文化共生の押し付けではないのか」
という不満が生まれる。
私は、この国民側の違和感を、
「排外主義だ」
と一言で片付けるべきではないと思います。
むしろ政府が真摯に受け止めるべきなのは、
「そもそも、あなたたちは国民に十分説明しましたか?」
という問いなのです。
政府に問いたい――「国民には知らせる必要はない」のですか
ここで、私は政府に対して、かなり厳しい問いを投げかけたいと思います。
外国人政策について、政府は制度を作ってきました。
法改正も行ってきました。
外国人材を受け入れてきました。
「共生社会」という政策目標を掲げてきました。
そして現在も、その政策をさらに発展させています。
それならば、政府は主権者である国民に対して、
「私たちは、これからどのような日本社会をつくろうとしているのか」
を、もっと正面から説明すべきではないでしょうか。
また、
「なぜ日本は共生社会を目指すのか」
についても、もっと明確に説明すべきではないでしょうか。
さらに、
「外国人を最初から移民として受け入れる制度ではないとしても、適法な在留の継続を通じて長期的な定住や地域社会との関係形成が生じ得ること」
についても、国民に正直に説明すべきではないでしょうか。
私は、政府がこうした説明を十分に行ってきたとは思えません。
むしろ長年にわたって、
個別制度については説明する。しかし、それらを全部合わせたとき日本社会がどこへ向かうのかという「全体像」については、正面から説明しない。
――そのような政策運営が続いてきたのではないか、と強く疑問を持っています。
だからこそ、私は次の問いを投げかけたいのです。
まるで「国民には知らせる必要はない、政府が決めて進めればよい」と言わんばかりの政策運営になってはいなかったでしょうか。
これは、政府の内心を決めつける言葉ではありません。
政府が実際に何を説明し、何を説明してこなかったのかを、国民自身に考えてもらうための問いです。
「日本版ルール主義」から見れば、政府にも守るべきルールがある
私はこれまで、日本の外国人政策について、「日本版ルール主義」という考え方を提案してきました。
外国人には、日本の法律や制度、社会のルールを理解し、守ってもらう。
これは当然です。
しかし、それだけではありません。
政府自身にも守るべきルールがあります。
それは、
主権者である国民に対して、政策の目的、必要性、条件、負担、長期的な帰結を誠実に説明すること。
そして、
国民がその政策について判断し、選択できるようにすること。
です。
外国人にルールを守ってもらう。
同時に、
政府もまた、国民主権という民主主義のルールを守る。
私は、これも「日本版ルール主義」の重要な柱であると考えます。
私は「共生」の必要性を否定しているのではない
ここは、誤解のないように明確にしておきたいと思います。
私は、
「外国人との共生など必要ない」
と言っているのではありません。
外国人を一定程度受け入れるのであれば、秩序ある共生を実現することは必要です。
また、外国人にも日本の法律、制度、社会のルールを理解してもらい、日本語や日本社会について学んでもらうことも重要です。
問題は、
「共生をするか、しないか」
ではありません。
問題は、
「誰が、どのような説明をした上で、その社会の姿を選ぶのか」
です。
「秩序ある共生社会」を、本当に日本社会が選択するなら
もし政府が、
「日本は外国人を一定程度受け入れる社会を目指します。」
「長期的な定住につながるケースも想定します。」
「外国人を日本社会から孤立させず、地域社会の一員として共に暮らせる社会を目指します。」
「そのために、日本語教育、学校、医療、住宅、自治体支援などに必要な負担を国として引き受けます。」
「同時に、外国人にも日本の法律、制度、文化、社会のルールを理解し、責任を果たしてもらいます。」
「このような日本社会を目指すことについて、国民に判断してもらいます。」
――と正面から説明したなら、私は、それを民主主義として大いに歓迎します。
国民が賛成するかもしれません。
反対するかもしれません。
条件付きで賛成する人もいるでしょう。
しかし、それでいいのです。
民主主義とは、全員を同じ意見にすることではありません。
十分な情報を示した上で、それぞれが考え、議論し、選択することです。
おわりに――「共生」を進めるなら、まず国民との共生から
外国人政策は、単なる労働力政策ではありません。
それは、
「日本社会をこれからどのような共同体として維持していくのか」
という国家の将来像に関わる問題です。
だからこそ私は、外国人政策そのものを否定するのではなく、
その政策を決める過程における民主主義を問い直したいのです。
平成30年、政府は「適正な受入れ」と「共生社会の実現」を一体の政策目標として掲げました。
その後、「総合的対応策」は改訂を重ね、「共生社会の実現に向けたロードマップ」も策定・変更され、現在に至るまで政策は継続・発展しています。
しかし、政策がこれほど継続的に、そして大きく展開されてきたのであれば、なおさら問いたい。
その「共生社会」という日本社会の将来像を、主権者である国民は、本当に十分な説明を受けた上で選択したのでしょうか。
私は、ここを曖昧にしたまま、行政主導で「共生」を積み上げていくことには、民主主義・国民主権の観点から重大な問題があると考えます。
そして、政府、とりわけ現在の政権には、この問題について、今こそ強い危機感を持ってもらいたいと思います。
国民への明確で十分な説明については、「まだ時間はある」と考えない方がよい。
私は、むしろ「今がラスト・チャンスかもしれない」というくらいの認識が必要だと思います。
なぜなら、国民の忍耐にも限度があるからです。
これまで十分な説明がないまま制度や政策だけが積み重ねられてきたと国民が感じれば、政府に対する不信は少しずつ蓄積していきます。
そして、あるところで、
「もう結構だ。今さら説明されても信用できない」
という段階に達してしまうかもしれません。
そうなってから、政府がいくら丁寧な説明を始めても、国民が耳を傾けてくれるとは限りません。
信頼を失ってからの説明では、遅いのです。
だからこそ、まだ政府に対する政策的信頼を取り戻す余地がある今の段階で、政府は国民に対して正面から説明すべきです。
「なぜ外国人を受け入れるのか」
「どこまで受け入れるのか」
「長期的な定住をどこまで想定しているのか」
「なぜ共生社会を目指すのか」
そして何より、
「私たちは、これからどのような日本社会をつくろうとしているのか」
を。
その上で、国民に判断を求めるべきです。
外国人にルールを守ってもらう。
政府も国民主権のルールを守る。
そして国民自身が、日本社会の将来について考え、選択する。
私は、それこそが、これからの日本に必要な「日本版ルール主義」なのだと思います。
「共生社会」を進めるというのなら、その前に、まず主権者である国民との間に、十分な説明と対話による信頼関係を築くべきではないでしょうか。
そして、最後にもう一度、問いかけたいと思います。
その「共生社会」、本当に国民が選んだものですか?
