ノーベル賞といえば、世界的に権威のある賞です。受賞者が発表されるたびに大きなニュースとなり、日本人が受賞すれば、国を挙げて喜び、称賛します。
もちろん、ノーベル賞が人類の科学や文化、平和に大きく貢献してきたことは間違いありません。その価値や功績を否定するつもりはありません。
ただ、少し立ち止まって考えてみたいのです。
ノーベル賞は、全知全能の神が受賞者を選んでいるわけではありません。選考するのは、あくまで人間です。
人間が判断する以上、そこには評価する側の価値観や判断基準があります。何を高く評価するのか、誰の功績を重視するのか、どのような人物や活動を世界に向けて称賛するのか。そうした判断に、人間の考え方が反映されるのは、ごく自然なことではないでしょうか。
ノーベル平和賞を見れば分かること
そのことを考えるうえで、分かりやすいのがノーベル平和賞です。
「平和」という言葉には、誰もが賛同するような普遍的な響きがあります。しかし、現実の国際社会では、何が平和に貢献するのか、どのような行動を評価すべきなのかについて、国や立場によって見方が異なります。
実際、過去には受賞の妥当性が強く疑問視された事例もあります。
よく知られているのが、1973年のノーベル平和賞です。この年は、ベトナム和平交渉に関わったアメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官と、北ベトナム側のレ・ドゥク・ト氏が共同受賞者に選ばれました。
しかし、当時はベトナム戦争が続いており、前年末にはアメリカによる北ベトナムへの大規模な爆撃も行われていました。和平交渉を進める一方で、軍事作戦にも深く関わっていたキッシンジャー氏への授賞には強い批判が起きました。選考委員会の委員2人が辞任し、レ・ドゥク・ト氏も、ベトナムに平和が実現していないことなどを理由に受賞を辞退しました。
もちろん、和平交渉を進めたことを評価する立場にも、それなりの理由はあったでしょう。しかし、この事例は、誰のどのような行動を平和への貢献と評価するのかが、決して単純ではないことを示しています。
ノーベル平和賞を受賞したという事実だけで、その人物や組織の活動があらゆる面から正しかったと証明されたわけではありません。受賞者に対する評価が、世界中で一致していることを意味するわけでもないのです。
ノーベル平和賞は、平和について考える重要なきっかけにはなります。しかし、それをもって議論に終止符を打つような、絶対的な判定と受け止めるのは適切ではないと思います。
自然科学の賞も、少し違った角度から考えてみる
では、物理学賞や化学賞、生理学・医学賞などの自然科学分野はどうでしょうか。
これらの分野では、政治的な主張や思想よりも、科学的な業績そのものが重視されます。平和賞とは性質が異なり、実験や観測、検証によって確かめられる事実が評価の重要な土台となります。
それでも、受賞者の選考が完全に機械的に決まるわけではありません。
そのことを考える具体例として、2026年のノーベル化学賞を取り上げてみましょう。
今年の化学賞は、フランスのアンリ・カガン氏と日本の硤合憲三氏に授与されました。両氏の研究は、鏡に映したような左右の違いを持つ分子について、一方の形を選択的につくり出す化学反応に関するものです。
分子の左右の違いは、医薬品の開発などにおいて重要な意味を持ちます。形が異なるだけで、生体内での働きが変わることがあるからです。また、生命を構成する分子が、なぜ左右どちらか一方の形に偏っているのかという、生命の起源にも関わる科学上の謎を考えるうえでも注目されてきました。
硤合氏は、生成された分子自身が次の反応を促す「自己触媒反応」を利用し、分子のわずかな左右の偏りが増幅される仕組みを示しました。生命の起源を考えるうえでも重要な研究です。
ここで注目したいのは、科学的に重要な研究であっても、その価値がノーベル賞という形で認められる時期や、誰が受賞者に選ばれるかは、必ずしも自動的に決まるわけではないということです。
今回の受賞者の一人であるカガン氏をめぐっても、過去に興味深い経緯がありました。2001年のノーベル化学賞では、関連する不斉触媒反応の研究が評価され、ウィリアム・ノールズ氏、野依良治氏、バリー・シャープレス氏が受賞しましたが、カガン氏は受賞者に含まれませんでした。このことは当時、フランスの研究関係者からも疑問視されました。
もちろん、受賞者に選ばれなかったことだけをもって、選考が不公平だったと結論づけることはできません。ノーベル賞には、科学的な成果を評価するうえで必要な時間もありますし、限られた人数の受賞者を選ばなければならないという制度上の制約もあります。
しかし、どの段階で業績の重要性を認め、誰の貢献を重視し、誰を受賞者に選ぶのか。科学的な事実だけで、その答えが自動的に決まるわけではありません。
自然科学の賞であっても、選考には人間による判断が伴うのです。
権威を尊重することと、権威に委ねることは違います
私が言いたいのは、ノーベル賞の選考に不正や隠された思惑があると決めつけることではありません。具体的な根拠もなく、選考の裏側を疑ってみせることにも意味はないでしょう。
そうではなく、どれほど権威ある賞であっても、それを運営し、選考するのは人間だという、ごく当たり前の事実を忘れないようにしたいのです。
日本では、ノーベル賞を「世界が認めた客観的な評価」として、必要以上に絶対視する傾向があるのではないでしょうか。もちろん、これは私自身の印象であり、日本人全体の傾向として実証されているという意味ではありません。
受賞のニュースを喜ぶことと、その賞の評価を無条件に受け入れることは、別の話です。
権威ある賞だからこそ、その価値を尊重しつつ、選考の性質や限界についても冷静に考える。その姿勢は、ノーベル賞に限らず、国際機関の評価や各種のランキング、専門家の判断など、権威を伴うもの全般に通じるはずです。
権威があることと、絶対に正しいことは同じではありません。
ノーベル賞を批判するためではなく、ノーベル賞をより正しく理解するために。私たちには、権威を尊重しながらも、それを絶対視しないという視点が必要なのではないでしょうか。
