いま、「ちいかわ」が大きなブームになっています。
2026年7月に公開された『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』は、9月24日時点で興行収入165億円を突破し、2026年公開作品の興行収入ランキングで1位。歴代興行収入ランキングでも15位に入る大ヒットとなっています。
しかし、私が今回興味を持ったのは、この映画の興行成績そのものではありません。映画を見た人たちが、SNSで「この作品をどう受け止めたか」「あの場面にはどんな意味があるのか」と、それぞれの感想や解釈を発信し、そこからさまざまな議論が生まれていることです。
最近の映画には、昔ながらの「善い者が悪い者を倒して終わり」という単純な善悪二元論ではなく、どちらが正しいのか、どちらが悪いのかを簡単には決められない作品が増えている、という指摘があります。
結末についても、「答えはこれです」と観客に説明するのではなく、「あなたはどう考えますか」と問いかける。
だからこそ、映画を見た人は、「私はこう思う」「いや、こういう見方もできるのではないか」と、自分の言葉で語りたくなる。
私は、この話を聞いていて、ふと外国人受け入れ政策のことを考えました。
外国人を受け入れるべきか。
それとも、受け入れるべきではないのか。
この問題も、とかく「賛成か、反対か」という二択で語られがちです。
しかし、本当にそれだけでよいのでしょうか。
外国人受け入れ政策は、誰を、何のために、どの分野で、どの程度受け入れるのか。どのような条件を設けるのか。日本語や生活上のルールをどう共有するのか。外国人の権利をどう保障し、同時にどのような責任を求めるのか。受け入れによって生じる負担や社会統合の問題に、日本社会がどう対応するのか――。
考えるべきことは、実に多くあります。
つまり、「受け入れるか、受け入れないか」という二択の先に、もっと大切な問いがあるのではないでしょうか。
「複雑な社会問題を、二択で終わらせず、自分の頭で考えるとはどういうことなのか。」
今回は、映画や「ちいかわ」をめぐる最近の現象を入口にして、このことについて少し考えてみたいと思います。
「答え」をもらうのではなく、自分で考える
考えてみれば、映画に限った話ではありません。
私たちは、複雑な問題に直面すると、つい「どちらが正しいのか」という答えを求めたくなります。
賛成か反対か。
正しいか間違っているか。
善か悪か。
味方か敵か。
もちろん、世の中には明確に判断しなければならない問題もあります。法律に反する行為について、「人それぞれの考え方があります」で済ませることはできません。
しかし、現実の社会には、そう簡単に白黒をつけられない問題も数多くあります。
むしろ、重要な問題ほど、さまざまな事情が絡み合っていることが少なくありません。
そういう問題について、「答えはこれです」と簡単に結論を出してしまうと、分かりやすくはなりますが、その分だけ現実の複雑さを切り捨ててしまうことがあります。
だからこそ、自分で考えることが大切なのだと思います。
外国人政策も「受け入れるか、受け入れないか」ではない
私がこれまで個人ブログで繰り返し書いてきた外国人受け入れ政策についても、実は同じことが言えます。
外国人を受け入れるべきか。
それとも、受け入れるべきではないのか。
こうした二択で議論すると、非常に分かりやすい。
しかし、私は外国人受け入れ政策というものは、そもそもその二択だけで考える問題ではないと思っています。
例えば、
誰を受け入れるのか。
何のために受け入れるのか。
どの分野で受け入れるのか。
どの程度の規模なのか。
どのような条件を設けるのか。
日本語や生活上のルールをどう共有するのか。
外国人の権利をどう保障するのか。
同時に、どのような責任を求めるのか。
受け入れた後、地域社会や行政がどこまで対応できるのか。
そして、当初の想定どおりにいかなかった場合、どう見直すのか。
こうした問題を一つ一つ考えていかなければなりません。
つまり、「受け入れるか、受け入れないか」という二択の先に、もっと重要な問いがあるのです。
「どのような受け入れ方なら、日本社会にとって持続可能なのか」
という問いです。
「賛成」と「反対」の間に、考える余地がある
ここで誤解してほしくないのは、私は「賛成と反対の中間を取ればよい」と言っているわけではないということです。
何でも「どちらにも一理ある」として、真ん中に立てばよいという話でもありません。
そうではなく、そもそも問題の設定そのものを一段深くしてみる、ということです。
「外国人を受け入れるのか、受け入れないのか」という問いだけではなく、
「なぜ受け入れるのか」
「どのような場合なら受け入れるのか」
「どこまでなら社会として受け止められるのか」
「何を条件とするのか」
と問い直してみる。
そうすると、単純な賛成・反対では見えてこなかった問題が見えてきます。
そして、おそらくそこから先は、人によって結論が違ってきます。
それでよいのだと思います。
大切なのは、同じ結論になることではなく、自分の頭で考えた上で、その結論に至る理由を説明できることではないでしょうか。
SNSは「考えること」の邪魔になるだけなのか
最近は、SNSについて悪い面が強調されることが多くあります。
誹謗中傷。
炎上。
デマ。
感情的な対立。
確かに、そうした問題はあります。
しかし、先ほどの映画の話を聞いていると、SNSには別の可能性もあることに気づかされます。
映画を見て、自分の感想を書く。
誰かの感想を読む。
「そんな見方があるのか」と気づく。
それに対して自分の考えをもう一度整理する。
さらに別の人の意見を読む。
そうして、自分一人で映画を見ただけでは気づかなかったことに気づく。
これは、SNSを単なる「情報を受け取る場所」ではなく、考えたことを外に出し、他人の考えと照らし合わせる場所として使っていることになります。
AI(人工知能)についても同じことが言えるかもしれません。
AIに答えを出してもらって、それで思考を終わらせるのか。
それとも、AIが示した答えを材料にして、「本当にそうなのか」と自分で考えるのか。
同じ道具でも、使い方によって結果は大きく違ってきます。
「分からないまま考える」ことも大切なのではないか
私は、最近の映画に見られる「簡単には答えを出さない」という傾向にも、少し興味を感じます。
もちろん、映画を見て「よく分からなかった」で終わることもあるでしょう。
しかし、「よく分からない。だから考えてみよう」という見方もあります。
ひょっとすると、これは社会問題について考えるときにも大切な姿勢なのではないでしょうか。
「答えが分からない」という状態は、必ずしも悪いことではありません。
むしろ、簡単な答えを見つけたつもりになってしまうより、
「これは本当にそうなのか」
「別の見方はないのか」
「この結論には、どんな前提があるのか」
と考え続けることの方が、現実に近づける場合があります。
「自分の頭で考える」とは、何でも疑うことではない
もちろん、自分の頭で考えるというのは、専門家や他人の意見をすべて疑うことではありません。
法律なら法律を調べる。
統計なら統計の数字を見る。
専門家の意見なら、その根拠を確認する。
異なる立場の意見も読んでみる。
そして、それらを材料にして自分なりに判断する。
つまり、「何でも人の言うことを信じない」ということではなく、「人の言うことをそのまま自分の結論にしない」ということなのだと思います。
映画について誰かが「この作品の意味はこうだ」と解説していても、自分が見て感じたことまで捨てる必要はありません。
同じように、社会問題について誰かが「答えはこれだ」と言っていても、その答えを一度自分の頭の中に置いて、改めて考えてみることが大切です。
二択の先にあるもの
映画の話から外国人政策の話へ飛んでしまったように見えるかもしれません。
しかし、私自身は、両者には一つ共通するところがあると思っています。
それは、
「複雑な現実を、簡単な二択に押し込めない」
ということです。
映画なら、
「この人が善で、あの人が悪い」
だけではなく、
「この人物はなぜこうしたのか」
「別の立場から見たらどうなのか」
「この結末をどう受け止めるのか」
と考えてみる。
社会問題なら、
「賛成か反対か」
だけではなく、
「何が問題なのか」
「何を守る必要があるのか」
「どこに限界があるのか」
「別の方法はないのか」
と考えてみる。
そして最後は、自分自身で判断する。
私は、それが「自分の頭で考える」ということなのではないかと思っています。
映画を見て、「面白かった」で終わるのも、もちろん一つの楽しみ方です。
けれども、
「なぜ自分はそう感じたのだろう」
「この作品は何を問いかけているのだろう」
と考えてみると、同じ映画が少し違って見えてくる。
社会問題も、それと似ているのかもしれません。
「受け入れるか、受け入れないか」ではなく、その先にある問いを自分で見つけてみる。
その問いに対する答えは、人によって違っていても構わない。
大切なのは、誰かから与えられた「正解」を受け取るだけではなく、事実を確かめ、いろいろな意見に触れ、そして最後は自分の頭で考えてみること。
映画についても、社会についても、そんな楽しみ方、考え方が、これからもっと広がっていけばいいのではないでしょうか。
