はじめに
前回、第27部では、日本版ルール主義の第三の制度設計原則として、「漸進主義」について考えました。
将来の産業構造や技術革新を、誰も正確に予測することはできません。
だからこそ、最初から将来を完全に見通した制度を作ろうとするのではなく、小さく始め、実施し、結果を確認し、必要に応じて修正しながら制度を発展させていく。
それが、私の考える漸進主義です。
しかし、ここで一つ重要な問題が残ります。
制度を「小さく始める」ことができたとしても、
何をもって「うまくいった」と判断するのでしょうか。
逆に、
どのような結果が出たら「制度を見直すべきだ」と判断するのでしょうか。
この基準が曖昧なままでは、漸進主義は単なる「様子を見る」という政策になってしまいます。
そこで必要になるのが、今回取り上げる「検証可能性」という考え方です。
私は、日本版ルール主義における検証可能性を、
外国人受入れ政策を「実施して終わり」にせず、実施した結果を評価・検証し、その結果に応じて継続・拡大・修正・縮小・停止を判断できる制度として設計すること
と考えています。
政策は「実施したこと」で成功とはいえない
行政政策では、ともすると、
「制度を作った」
「法律を改正した」
「予算を付けた」
「事業を実施した」
というところまでで、一つの区切りがついたように考えられがちです。
しかし、本当に重要なのは、その先です。
制度を実施した結果、
当初設定した政策目的は達成されたのか。
想定していた効果は得られたのか。
予想していなかった問題は発生していないか。
制度によって生じた負担や副作用は許容できる範囲なのか。
こうしたことを確認しなければ、政策が成功したのか失敗したのかを判断することはできません。
外国人受入れ政策も同じです。
例えば、ある分野で外国人材を受け入れた結果、人手不足が一定程度緩和されたとしても、
日本語教育の負担が急増した。
地域の行政窓口に過大な負担が生じた。
学校現場への対応が追いつかなくなった。
労働環境に新たな問題が発生した。
特定の地域に外国人が過度に集中した。
といった問題が生じているのであれば、
単純に「人手不足が解消されたから成功」と評価することはできません。
政策には、目的とともに、その副作用や社会的コストも存在するからです。
何をもって「成功」とするのか
したがって、制度を作る段階から、
「何をもって制度がうまく機能していると判断するのか」
を、できる限り明確にしておく必要があります。
例えば、外国人受入れ政策であれば、
・人手不足の緩和
・必要な技能・人材の確保
・外国人労働者の技能向上
・日本語能力の向上
・適正な労働条件の確保
・社会保険への適切な加入
・地域社会との摩擦の抑制
・行政サービスへの過度な負担の回避
・不法就労や制度の悪用の防止
など、複数の観点から政策の効果を確認する必要があります。
つまり、
「人数を受け入れたか」ではなく、「何のために受け入れ、その結果、何がどう変わったのか」
を検証するということです。
「検証可能性」とは何か
ここで、私がいう「検証可能性」の意味を整理しておきたいと思います。
検証可能性とは、単に統計を取ることではありません。
また、制度を定期的に「評価する」と書いておけば、それで十分というものでもありません。
重要なのは、
政策目的を明確にする。
↓
目的の達成状況を確認するための指標を設定する。
↓
必要なデータを継続的に収集する。
↓
結果を分析する。
↓
その結果を公表する。
↓
結果に応じて制度を継続・拡大・修正・縮小・停止する。
という一連の仕組みを制度として組み込むことです。
つまり、
「検証すること」そのものではなく、「検証結果を政策決定につなげること」まで含めて検証可能性なのです。
完璧な制度を前提にしない
ここで、検証可能性を制度として組み込む際に、もう一つ考えておかなければならない問題があります。
それは、行政機関であれ民間企業であれ、日本社会に比較的根強く存在する、
「制度を始める以上、事前に十分な検討を尽くし、できる限り最善の制度を作るべきだ」
という考え方です。
これは、決して悪い考え方ではありません。
制度設計において事前の検討を尽くすことは重要です。
将来起こり得る問題をできる限り想定し、必要な手当てをあらかじめ制度に組み込むことは、制度設計者の重要な責任です。
しかし、
「事前に検討を尽くすこと」と「事前に完全な制度を作ること」は同じではありません。
どれほど綿密に検討したとしても、実際に制度を運用してみなければ分からないことがあります。
特に外国人受入れ政策のように、人の国境を越えた移動を伴い、産業、労働市場、地域社会、教育、医療、行政など、多くの分野に影響を及ぼす政策では、制度設計段階ですべての問題を予見することは困難です。
むしろ、
「事前に検討を尽くして最善を尽くす。しかし、それでも想定外の問題は起こり得る」
ということを、制度設計そのものの前提としておくべきではないでしょうか。
「官僚の無誤謬性の神話」という問題
この問題は、行政について考えると、さらに重要になります。
行政には、国民からの信頼を維持することが求められます。
そのため、行政が一度決定した制度について、
「この制度設計には問題がありました」
「当初の想定が間違っていました」
と認めることには、心理的にも組織的にも一定の困難が伴います。
これは、個々の公務員が不誠実だからという単純な話ではありません。
行政には、法律に基づいて制度を執行し、国民に対して説明責任を果たすという役割があります。
そのため、
「行政は誤ってはいけない」
という期待が強くなればなるほど、結果として、
「明白な誤りであることが確認できるまでは、制度の問題を認めにくい」
という傾向が生じる可能性があります。
いわゆる「官僚の無誤謬性の神話」も、こうした文脈から考えることができるでしょう。
しかし、将来を完全に予測できない以上、
「誤りを認めないこと」をもって行政の信頼性を維持しようとする考え方には限界があります。
むしろ重要なのは、
誤りや想定外の事態が発生したときに、それを早期に発見し、事実として認め、必要な修正を行うことができる行政
ではないでしょうか。
「誤りを認められる制度」をあらかじめ作っておく
だからこそ、日本版ルール主義における「検証可能性」は、
単に評価指標や統計を設定するだけでは不十分です。
制度を実施した結果、
「当初の想定とは違う結果になった」
「制度設計に問題があった」
「受入れ規模が社会統合能力を上回った」
といった事実が明らかになった場合に、
その事実を認め、制度を修正することができる仕組み
まで、あらかじめ制度の中に組み込んでおく必要があります。
例えば、
・一定期間ごとの制度評価を義務付ける
・評価結果を公表する
・必要に応じて第三者を含む検証体制を設ける
・制度の拡大条件だけでなく、縮小・停止の条件も設定する
・問題が発生した場合に制度を見直す手続をあらかじめ定める
・制度変更を「失敗の認定」ではなく「政策改善」として扱う
といった仕組みです。
こうした手当てがあらかじめ制度に組み込まれていれば、
「制度を作った以上、成功していることにしなければならない」
という圧力を弱めることができます。
そして、
制度の問題を発見すること自体が、制度を改善するための重要な成果である
という考え方を、制度運営の中に定着させることができます。
「検証可能性」を絵に描いた餅にしない
私は、この点をかなり重要だと考えています。
検証可能性について、
「必要なデータを集めます」
「定期的に評価します」
「問題があれば見直します」
と制度に書くだけでは、十分ではありません。
実際に問題が発生したとき、
誰が問題を認定するのか。
誰が評価するのか。
評価結果を誰が公表するのか。
どのような基準で制度変更を決定するのか。
制度を変更することに組織的な抵抗が生じた場合、どのように対応するのか。
こうしたところまで考えておかなければ、
「検証可能性」は、絵に描いた餅になってしまいます。
つまり、
検証できる制度を作るだけでは足りません。
検証結果を受け入れ、必要ならば自らの制度設計を修正できる制度を作らなければならない。
ここまで含めて、私は「検証可能性」だと考えています。
検証結果によって政策を変える覚悟
ここまで来ると、検証可能性の本当の難しさが見えてきます。
それは、
検証することよりも、検証結果を受け入れることの方が難しい
ということです。
例えば、制度を導入した結果、
当初期待していた効果が得られなかった。
あるいは、
想定していなかった社会的コストが大きくなった。
さらに、
当初は適正だと考えていた受入れ規模が、実際には社会統合能力を超えていた。
こうしたことが明らかになった場合、
制度を縮小する。
対象分野を変更する。
受入れ人数を減らす。
新規受入れを一時停止する。
場合によっては制度そのものを廃止する。
そうした判断も必要になります。
しかし、制度を縮小・停止することには、
「政策が失敗したのではないか」
という批判が伴う可能性があります。
だからこそ、検証可能性を本当に機能させるためには、
制度を修正することを「失敗」とだけ捉えない政策文化
が必要です。
政策とは、最初から完全な答えを出すことではありません。
不確実な未来に対して、現時点で最善と考えられる制度を実施し、その結果から学び、必要に応じて修正していくことです。
「修正できること」は、政策の弱さではない
私は、制度を修正できることは、政策の弱さではなく、むしろ強さだと考えています。
なぜなら、
「自分たちの制度設計は絶対に間違っていない」
という前提に立つ制度よりも、
「実施結果が当初の想定と異なれば、制度を修正する」
という仕組みを持つ制度の方が、長期的には持続可能だからです。
第23部で述べた「学習する制度」とは、まさにこのことです。
学習するとは、
「自分たちは最初から正しかった」
と確認することではありません。
むしろ、
「実際にやってみた結果、当初の想定と違っていたことが分かった。そのため、制度を修正する」
ということです。
制度設計者が完璧ではないからこそ、制度そのものに「学習する仕組み」を組み込む。
それが、日本版ルール主義における検証可能性の重要な意味だと考えています。
検証可能性と「社会統合先行原則」
ここで、第24部・第25部で述べた「社会統合先行原則」ともつながってきます。
社会統合能力を超えない範囲で外国人を受け入れる。
そのためには、そもそも現在の社会統合能力がどの程度なのかを把握しなければなりません。
そして、実際に外国人を受け入れた後、
日本語教育の需要は想定どおりだったのか。
自治体の行政負担は許容範囲だったのか。
学校現場への負担はどうだったのか。
地域社会との摩擦は増えていないか。
こうしたことを検証する必要があります。
もし、想定以上の負担が発生していたのであれば、
受入れ規模を見直す。
あるいは、
社会統合能力そのものを拡充する。
その上で、改めて受入れ政策を見直す。
このような循環が必要になります。
つまり、
社会統合先行原則と検証可能性は、別々の原則ではありますが、実際の制度運営では密接に結び付いているのです。
日本版ルール主義における「検証可能性」
ここまでを整理すると、私が考える日本版ルール主義における検証可能性とは、
「制度を作る前に、できる限り検討する」
ことと、
「制度を作った後に、その結果を検証する」
ことを対立させない考え方です。
事前の検討は徹底する。
しかし、事前に完全な制度を作れるとは考えない。
制度を実施する。
そして、実施結果を客観的に検証する。
問題があれば、それを認める。
必要ならば制度を修正する。
場合によっては縮小・停止する。
逆に、十分な効果が確認され、社会的コストも許容範囲に収まっているのであれば、段階的に拡大する。
この一連のプロセスを、制度そのものに組み込んでおくのです。
これが、
「実施して終わり」ではなく、「実施して、検証し、学習し、修正する」制度
です。
おわりに
外国人受入れ政策は、一度制度を作ってしまえば、その後は自動的に正しい方向へ進んでいくものではありません。
未来の産業構造も、技術革新も、労働市場も、地域社会の状況も、完全には予測できません。
だからこそ、
制度を「完成品」として作るのではなく、「学習する制度」として作る。
そのために必要なのが、
検証可能性
です。
しかし、検証可能性は、単に統計を取り、報告書を作ることではありません。
事前に評価基準を設定し、
結果を検証し、
問題があれば認め、
必要なら制度を修正する。
そして、そのための仕組みを、制度の開始時点からあらかじめ組み込んでおく。
そこまでできて初めて、検証可能性は実効性を持つのだと私は考えます。
日本版ルール主義が目指すのは、
「絶対に間違えない外国人受入れ政策」ではありません。
むしろ、
「間違いや想定外の事態が起こり得ることを前提として、それを早期に発見し、修正できる外国人受入れ政策」
です。
それは、政策への責任を放棄することではありません。
未来を完全に予測できないからこそ、
未来に対して責任を持つための制度設計
なのです。
