はじめに――若い世代は「先人の罪」を背負う必要などない
戦後80年以上が経ちました。
今、日本で暮らす20代、30代、40代の人たちの多くは、当然ながら戦争を知りません。戦後生まれの世代であり、まして10代の若者たちにとっては、第二次世界大戦は「祖父母や曾祖父母の時代に起きた歴史」です。
私自身も戦後生まれです。もちろん、私も戦争を経験していません。だからこそ、戦後生まれの世代の一人として、若い世代の人たちに伝えておきたいことがあります。
それは、歴史を学ぶことと、先人の罪を今の自分の罪として背負うことは、同じではないということです。
ときどき日本の若い世代に向かって、「日本は過去にこんな悪いことをした」「日本人は加害者だった」「その歴史を忘れてはいけない」といった言葉が投げかけられます。
もちろん、歴史を学ぶことは大切です。
日本が過去に行ったことを美化する必要もありません。戦争によって日本人だけでなく、アジアをはじめ多くの国々の人々が犠牲になったことも、忘れてはならないでしょう。
しかし、ここで一つ、どうしても区別しておきたいことがあります。
戦後生まれの人が、戦前・戦中を生きた先人の行為について、自分自身の罪であるかのように罪悪感を抱く必要など、そもそも最初からなかったのです。
20代、30代、40代はもちろん、私自身を含む戦後生まれの世代は、80年以上前の戦争を自分の意思で始めたわけではありません。
だから、先人が何をしたのかを知り、その功罪を冷静に考えることは必要です。
しかし、それと先人の罪を自分の罪として背負うこととは、明確に区別しなければなりません。
先人の罪を現代人が背負う必要はありません。
これは、歴史を否定する言葉ではありません。
むしろ、歴史と現在をきちんと区別しながら、過去から何を学ぶべきなのかを考えるために必要な言葉だと思います。
あなたは、80年前の戦争を始めた人ではない
20代、30代、40代の人であっても、そして私自身も、戦争当時にはまだ生まれていません。
その人たちが、80年以上前に生きていた日本人の行為について、現在の自分自身の「罪」として責任を負わなければならないのでしょうか。
私は、そうは思いません。
個人には、自分自身の行為について責任を負うという原則があります。
自分がしていないことについて、出生した時代や国籍だけを理由に「あなたにも罪がある」と言われても、それは責任というものの考え方として無理があります。
まして、戦後に生まれた日本人が、戦争を始めたわけではありません。
戦争を経験していない若者にまで、祖先の行為について罪悪感を持ち続けるよう求めることには、そもそも必要性も正当性もないのです。
先人の罪を現代人が背負う必要はありません。
これは、歴史を否定する言葉ではありません。
むしろ、歴史と現在をきちんと区別するために必要な言葉だと思います。
しかし、「責任がない」と「学ばなくていい」は全く違う
では、過去のことだから、もう何も考えなくていいのでしょうか。
もちろん、そうではありません。
私たちには、先人が何をしたのかを知る責任があります。
なぜ戦争が起きたのか。
なぜ当時の政治指導者たちは、その道を選んだのか。
なぜ外交によって解決できなかったのか。
なぜ国全体が戦争へと進んでいったのか。
戦争によって、どのような人々が犠牲になったのか。
そして、日本だけではなく、当時の世界で何が起きていたのか。
こうしたことをできるだけ事実に即して学ぶことは、とても大切です。
なぜなら、過去の失敗を知らなければ、同じような失敗を繰り返してしまうかもしれないからです。
ですから私は、
「先人の罪を現代人が背負う必要はない。しかし、先人の失敗から学ぶ責任は現代人にある。」
と考えます。
この二つは、決して矛盾しません。
歴史は「自虐」か「礼賛」かの二択ではない
日本の近現代史を語るとき、ときどき二つの極端な考え方が対立します。
一方には、
「日本は悪かった。日本人は加害者だった。だから反省し続けなければならない」
という考え方があります。
反対側には、
「日本の戦争には正当な理由があった。日本は悪くなかった」
という考え方があります。
しかし、本当にこの二択しかないのでしょうか。
私は、そうは思いません。
そもそも、歴史上の大きな出来事を「こちらが100%正しく、あちらが100%悪い」という単純な構図で捉えることには、慎重であるべきだと思います。
例えば、個人同士の争いや民事訴訟では、一方の主張が全面的に認められる「完全勝訴」ということもあります。しかし、交通事故のような身近な問題でさえ、加害者側だけにすべての責任があるとは限らず、被害者側にも一定の落ち度があれば、それが「過失相殺」として考慮されることがあります。
まして、国家と国家の間で起きるような大きな紛争になれば、事情はさらに複雑です。
それぞれの国には、それぞれの国益があり、それぞれの立場があり、それぞれの事情があります。
もちろん、だからといって「どちらも同じくらい悪かった」と言いたいのではありません。明らかな侵略や虐殺など、個々の行為については、その責任を厳しく問わなければならない場合もあります。
しかし、一つの戦争や国際紛争全体を、「100%の善」と「100%の悪」の対立として説明することは、歴史の複雑さを見失わせる危険があります。
「立場の数だけ正義がある」という言葉があります。
これは、「どんな行為も正当化できる」という意味ではありません。
むしろ、自分の側から見た正義だけを唯一の正義だと思い込まないことが大切だという意味で受け止めるべきでしょう。
当時の日本には日本の事情があり、アメリカにはアメリカの事情があり、中国にも、中国を植民地として支配していた欧州諸国にも、それぞれの事情がありました。
だからこそ、それぞれの立場から何が見えていたのかを理解しなければ、なぜ歴史がその方向へ動いていったのかを本当の意味で理解することはできません。
もちろん、日本にも責任があります。
日本の行為によって、多くの日本人が犠牲になり、同時に外国の人々も大きな犠牲を被りました。その事実を曖昧にしたり、都合よく否定したりする必要はありません。
しかし、日本だけを見ていれば歴史の全体像が分かるわけでもありません。
当時の国際情勢、欧米列強による植民地支配、各国の国益、資源をめぐる争い、国内政治、軍部と政府の関係、外交上の判断など、さまざまな要因が絡み合って歴史は動いていきました。
だからこそ、
「日本だけを悪者にする歴史観」からも、「日本の行為を正当化する歴史観」からも距離を置く。
その姿勢が大切なのではないでしょうか。
歴史を学ぶ目的は、過去の誰かを「善」と「悪」に振り分けて、現代の私たちが裁くことだけではありません。
なぜ、その時代の人々がそのような選択をしたのか。
ほかにどのような選択肢があったのか。
その選択によって、誰が利益を得て、誰が犠牲になったのか。
そして、その結果から私たちは何を学ぶべきなのか。
そこまで考えてこそ、歴史は現在を生きる私たちにとって意味のあるものになるのだと思います。
歴史を「自虐」か「礼賛」かの二択にしてはいけない。
必要なのは、どちらかの陣営に自分を置くことではなく、できるだけ多くの事実と、それぞれの立場から見た事情を知ったうえで、自分自身の頭で考えることなのです。
祖先を無条件に称賛する必要もない
ここで、もう一つ大切なことがあります。
「先人の罪を背負わなくていい」と言うと、「では、日本の過去を全部肯定するのか」と受け取る人がいるかもしれません。
しかし、それも違います。
私たちは、祖先を無条件に称賛する必要はありません。
日本の歴史にも、誇るべきことがあります。
長い歴史の中で育まれてきた文化や伝統があります。
戦後、日本人が平和と経済発展を求めて努力してきた歴史もあります。
一方で、反省すべき出来事もあります。
戦争によって、多くの日本人が命を失いました。同時に、日本の戦争によって外国の人々も大きな犠牲を被りました。
その事実から目を背ける必要はありません。
大切なのは、
祖先を無条件に称賛することでもなければ、祖先を無条件に断罪することでもない。
歴史上の先人が何をしたのかを事実として学び、その功罪を自分たちの頭で判断することです。
「日本人であること」に罪悪感を持つ必要はない
私は、若い世代の人たちに特に伝えたいことがあります。
日本人として生まれたことに、罪悪感を持つ必要はありません。
あなたが生まれたのは、戦後何十年も経った後です。
あなた自身が戦争を始めたわけではありません。
あなた自身が他国と戦争をしたわけではありません。
あなた自身が誰かを傷つけたわけでもありません。
それなのに、「日本人だから」という理由だけで、過去の罪を自分の罪のように感じる必要はないのです。
むしろ、そんな罪悪感から解放された方が、歴史を冷静に見ることができるのではないでしょうか。
自分を責める必要がなくなれば、
「日本のここは間違っていた」
と素直に認めることもできます。
同時に、
「しかし、これは日本だけの問題ではなかった」
と考えることもできます。
そして、
「では、これから日本はどうすればよいのか」
という未来の問題にも、前向きに向き合えるようになります。
「誇り」と「責任」は両立する
私は、日本という国に誇りを持つことと、過去の歴史を反省的に学ぶことは両立すると考えています。
むしろ、本来は両立しなければならないものです。
長い歴史と固有の文化を持つ国家の一員として生きている。
そのことに誇りを持っていい。
しかし、その誇りとは、
「日本は昔から何も悪いことをしなかった」
という意味ではありません。
自分たちの国の歴史を良い面も悪い面も含めて引き受けること。
そのうえで、より良い国を次の世代に渡そうとすること。
それが、本当の意味での国家への責任なのではないでしょうか。
誇りとは、過去のすべてを正当化することではありません。
過去を直視したうえで、それでも自分たちの国をより良くしていこうとする意思です。
歴史から学ぶべきなのは「罪」ではなく「教訓」
過去の戦争から、現代の私たちは何を学ぶべきでしょうか。
「日本人は悪かった」という結論だけで終わってしまえば、そこから得られる教訓は限られています。
もっと具体的に考えるべきです。
なぜ外交的な選択肢が狭まっていったのか。
なぜ国家として重要な判断を誤ったのか。
なぜ資源やエネルギーの問題が安全保障問題につながったのか。
なぜ国内で異論を述べることが難しくなったのか。
なぜ一度始めた戦争を、長期化の挙句の無条件降伏ではなく、もっと早い段階で講和によって終結させることができなかったのか。
こうした問題を考えてこそ、歴史は現代に役立つ知恵になります。
つまり、私たちが受け継ぐべきなのは「先人の罪」ではありません。
先人の経験と失敗から得られる教訓です。
日本は、もう一度「どんな国を目指すのか」を考えていい
私は、日本には自分たちの国のあり方を、自分たちの言葉で考え直す時期が来ていると思います。
自由。
民主主義。
法の支配。
基本的人権。
国民の尊厳。
国と郷土を守る責任。
長い歴史と文化への誇り。
他国との友好。
世界の平和と繁栄への貢献。
そして、いかなる選民思想や覇権主義にも陥らないという決意。
これらは、決して「戦前に戻る」という考え方ではありません。
むしろ、過去の歴史を踏まえたうえで、
「これからの日本を、私たちはどのような国にしていくのか」
を考えるための理念です。
日本の歴史を否定する必要もありません。
日本の歴史を美化する必要もありません。
必要なのは、歴史を自分たちのものとして冷静に学び、そのうえで未来を自分たちの手で選択することです。
おわりに――若い世代に渡したいのは「罪悪感」ではなく「未来」
戦後の日本では、過去の戦争について日本の責任を厳しく問うべきだという考え方が強く主張されてきました。それ自体には、歴史上の事実や日本の責任を検証するという重要な意味があります。しかし、それがいつしか、戦後生まれの世代にまで「先人の罪」を自分の罪として背負わせるような考え方にまで広がってしまったとすれば、それは別の問題です。
戦後生まれの若い世代には、先人の罪を背負う必要などありません。最初から、そのような罪を負わせるべき理由はなかったのです。
もちろん、戦争を忘れてはいけません。
犠牲になった人々を忘れてはいけません。
過去の過ちから目を背けてもいけません。
しかし、それは若い世代に罪悪感を植え付けることとは違います。
むしろ、
「あなたたちは、先人の罪を背負うために生まれてきたのではない」
と伝えたい。
あなたたちには、自分たちの時代を生き、自分たちの未来をつくる権利があります。
そして同時に、その未来をより良いものにする責任があります。
長い歴史の中で、日本にも誇るべきものがあり、反省すべきものがありました。
そのすべてを学んだうえで、私たちは次の世代へバトンを渡していけばいい。
過去に縛られるのではなく、過去から学ぶ。
自国を卑下するのでも、自国を無条件に称賛するのでもない。
歴史を冷静に見つめ、現在を自分たちの責任で生き、未来を自分たちの意思で選ぶ。
それこそが、戦後80年を超えた今の日本人に求められている歴史との向き合い方なのではないでしょうか。
先人の罪を現代人が背負う必要はない。
しかし、先人の失敗から学ぶ責任は現代人にある。
そして、その学びを未来につなげることこそ、私たちが次の世代に残すべき、本当の「責任」なのだと思います。

