はじめに――「平和を願う」だけで十分なのだろうか
私たちは、戦争を望みません。
先の大戦で、日本だけでなく世界中の多くの人々が、かけがえのない命を失いました。日本でも、軍人だけでなく、数多くの民間人が犠牲になりました。
だからこそ、戦争を繰り返してはいけない。
これは、誰もが共有できる大切な願いだと思います。
しかし、ここで一つ、考えてみたいことがあります。
「平和を願うこと」と、「平和を守るために何が必要なのかを考えること」は、本当に同じことでしょうか。
私は、そうではないと思います。
「戦争反対」と言うことは、もちろん大切です。
けれども、本当に大切なのは、その「次」ではないでしょうか。
「では、どうやって平和を守るのか」
ここまで考えなければ、平和への願いを現実の政策にすることはできないのではないでしょうか。
では、「どうやって平和を守るのか」
もし、ある国が日本に対して武力を使おうとしたら、私たちはどうするのでしょうか。
「戦争反対です」と相手に伝えれば、それで攻撃を思いとどまってくれるでしょうか。
もちろん、外交によって戦争を防ぐ努力は必要です。
相手国との対話を続けることも、国際社会との協力も、同盟関係も重要でしょう。
しかし、それでも相手が武力行使を選んだときには、別の問題が生じます。
「どうやって国民の命と暮らしを守るのか」
国家には、この問いに答える責任があります。
これは、戦争をしたいかどうかという問題とは別です。
むしろ、戦争をしたくないからこそ、戦争を起こさせないための仕組みを考えなければならないのです。
「武器を捨てれば平和になる」わけではない
ここは、感情ではなく、現実の問題として考える必要があります。
「武器があるから戦争が起きる。だから武器をなくせば平和になる」
という考え方には、一見すると分かりやすさがあります。
しかし、相手国が武力を持っていて、それを実際に使う意思を持っている場合には、そう単純にはいきません。
こちらが武器を持たなくても、相手の武器がなくなるわけではないからです。
むしろ、こちらが一方的に武力を放棄すれば、それを好戦的な国家に利用される危険さえあります。
だからこそ、
「武器を持たないこと」そのものを平和の条件と考えるのではなく、
「戦争を起こさせないために何が必要なのか」という視点から考える必要があります。
軍事力だけで平和がつくられるわけではない。しかし、軍事力は不可欠である
もちろん、軍事力だけで平和がつくられるわけではありません。
外交も必要です。
経済力も必要です。
国際社会との協力も必要です。
そして、国際法や国際的なルールを守る国々が協力して、侵略を許さない国際環境をつくることも重要です。
しかし、ここで忘れてはいけないことがあります。
国際協調そのものにも、それを支える力が必要だということです。
もし、世界の大多数の国が軍事力を放棄し、非武装になったとしましょう。
それで世界から戦争がなくなるとは限りません。
もし、その中に軍国主義的で好戦的な独裁国家が存在すれば、その国が武力によって他国を脅かしたとき、それを止める現実的な手段が極めて乏しくなるからです。
平和を願う国々がすべて武器を捨てれば、好戦的な国家も武器を捨てる――。
そうなるという保証は、残念ながらありません。
だからこそ、
「軍事力か、国際協調か」
という二者択一で考えるべきではないのです。
必要なのは、
「軍事力を含む国際協調」
なのだと思います。
国際社会が侵略を抑止し、平和を守るためには、外交だけでなく、それを裏付ける実力も必要なのです。
一国だけの軍備放棄では、世界の平和にはつながらない
ここから、もう一歩踏み込んで考えてみましょう。
仮に日本が自国の軍事力を極端に軽視し、軍備を縮小したとして、その一方で米国をはじめとする軍事大国の力によって自国の安全を守ってもらうとしたら、どうでしょうか。
日本自身が負担する防衛努力を小さくしながら、他国の軍事力によって安全を保障してもらう。
これは、少なくとも国際社会の一員として、十分な責任を果たしていると言えるのかという問題を生みます。
特に、同盟国との関係では、相手国に大きな負担を負わせながら、自国はその恩恵を受けるだけという状態になれば、同盟そのものの信頼性にも影響しかねません。
だから、
「軍備を減らせば平和になる」という議論は、一国だけの問題として考えることはできないのです。
もし人類が本当に軍備縮小、さらには軍備の放棄を目指すのであれば、それは各国が相互に、そして段階的に進めていかなければなりません。
相手国が軍備を維持したまま、自国だけが一方的に武器を捨てる。
それは「世界の軍備縮小」とは違います。
むしろ、自国の安全保障上の弱点を一方的に大きくする危険があります。
したがって、軍備縮小を目指すのであれば、相互の合意、検証、履行の確認などを伴った、現実的な軍備管理が必要になります。
一方的な軍備放棄と、国際的な軍備縮小は、同じものではありません。
「戦争反対」と「戦争に備える」は矛盾しない
ここは、ぜひ区別して考えてほしいところです。
「戦争に備える」と聞くと、「戦争をしたがっているのではないか」と感じる人もいるかもしれません。
しかし、本当にそうでしょうか。
消防署が消防車を用意しているのは、火事を起こしたいからではありません。
火事が起きたときに、人の命を救うためです。
同じように、国家が自国を守るための備えを持つことも、それだけで戦争を望んでいることにはなりません。
むしろ、
「できるだけ戦争を起こさない。そのために必要な備えをしておく」
という考え方もまた、平和を守るための一つの考え方なのです。
そして、その備えは単なる武器の数だけではありません。
外交力、情報収集能力、経済力、同盟関係、国民の防災・避難体制など、さまざまな要素が組み合わさって、一国の安全保障を支えています。
その中でも軍事力は、決してすべてではありません。
しかし、軍事力なしには成り立たない平和もある。
この現実から目をそらすべきではないと思います。
では、戦争が始まってしまったらどうするのか
さらに難しい問題があります。
どれだけ努力しても、戦争を完全に防げるとは限りません。
もし戦争が始まってしまったら、今度は、
「どうすれば戦争を拡大させず、できるだけ早く終わらせることができるのか」
という問題に向き合わなければなりません。
ここでも、「戦争反対」と言うだけでは答えになりません。
相手が攻撃を続けているのに、こちらだけが一方的に戦うことをやめれば、平和になるとは限らないからです。
相手が攻撃をやめるようにするには、外交による交渉が必要かもしれません。
国際社会の協力が必要かもしれません。
場合によっては、自国を守るための力を使うことも必要になるでしょう。
つまり、
「戦争を始めないこと」だけではなく、「戦争になった場合に、どう終わらせるのか」まで考えることが、現実の平和政策には求められるのです。
80年前の日本人が経験したこと
この問題を考えるとき、私たちは先の大戦の歴史からも学ぶことができます。
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、国民に向けて終戦を伝えました。
しかし、それによって日本人すべての戦争被害が、その日に終わったわけではありません。
満州などの海外にいた日本人にとっては、その後も過酷な状況が続きました。
ソ連軍の対日参戦と侵攻によって、多くの軍人や民間人が犠牲となり、戦後には日本軍人らがソ連へ移送され、長期間にわたって抑留されることになりました。
ここから私たちが考えるべきなのは、「どちらが善で、どちらが悪か」という単純な話だけではありません。
戦争を終わらせるということは、ただ自分たちが戦うことをやめれば、それで自動的に実現するわけではない。
相手も戦闘をやめる必要があります。
そして、そのためには外交や国際的な働きかけだけでなく、場合によっては相手に戦争を続けることを断念させるだけの力も必要になります。
これは、先の大戦から学ぶことのできる重要な教訓の一つではないでしょうか。
戦争を美化する必要はない。しかし、考えることから逃げてもいけない
ここで誤解してほしくないことがあります。
こうしたことを考えることは、戦争を肯定することではありません。
軍事力を重視することが、すぐに「戦争をしたい」という意味になるわけでもありません。
むしろ私は、逆だと思います。
戦争がどれほど悲惨なものなのかを知っているからこそ、どうすれば戦争を防げるのかを真剣に考えなければならない。
そして、もし戦争を完全に防げなかった場合には、どうすれば国民の命を守り、被害を小さくし、できるだけ早く戦争を終わらせることができるのかを考えなければならない。
それが、現実の世界で平和を守ろうとするということではないでしょうか。
「戦争反対」の、その先へ
「戦争反対」という言葉を、私は否定するつもりはありません。
むしろ、大切な言葉だと思います。
ただ、その言葉だけで思考を止めてはいけないのではないでしょうか。
「戦争反対です」
――では、そのために何をするのか。
「平和を守りたい」
――では、どうすれば平和を守れるのか。
「二度と戦争を起こしてはいけない」
――では、どうすれば戦争を起こさせない国にできるのか。
そして、
「もし、それでも戦争を仕掛けられたら、どうやって国民を守るのか」
ここまで考えて、初めて「平和」を現実の政策として考えることができるのだと思います。
先の大戦を経験した人々が少なくなり、戦争を知らない世代が社会の中心になっていく今だからこそ、この問題を冷静に考えることには意味があります。
戦争を美化する必要はありません。
しかし、戦争を忌避するあまり、戦争そのものについて考えることまで忌避してはいけない。
平和を願うことと、平和を守るために備えることは、決して矛盾しません。
そして、軍事力がすべてなのでもありません。
外交も、国際協調も、経済力も、国際的なルールも必要です。
しかし同時に、それらを実効性のあるものとして支える軍事力も必要なのです。
だからこそ、私はこう考えます。
軍事力がすべてではない。
しかし、軍事力は不可欠である。
この現実を踏まえたうえで、どうすれば戦争を起こさず、どうすれば戦争になったときに国民を守り、どうすれば戦争をできるだけ早く終わらせることができるのか。
そこまで考えてこそ、「平和」という言葉は、単なる願いではなく、現実の政策になるのではないでしょうか。
平和を願うだけでなく、平和を守るために何が必要なのかを考える。
それこそが、戦争を知らない私たちの世代が、先の大戦から学ぶべき大切な課題なのだと思います。
Q&A――「平和教育」で、私たちは何を学んできたのか
Q1 戦後の平和教育で「日本の戦争」を学ぶこと自体が問題なのですか?
いいえ、そういうことではありません。
日本がアジア・太平洋地域で戦争を拡大し、多くの国々や人々を巻き込んだこと、その過程で多くの犠牲者が生まれたことを学ぶのは、当然必要なことです。
問題は、歴史についてのある一つの評価だけを「唯一の正解」のように教え、それ以外の見方を考える余地をなくしてしまうことではないでしょうか。
歴史には、まず事実があります。
そして、その事実をどう評価するかという問題があります。
さらに、その歴史から現在の日本の安全保障について何を学び、どのような政策を選択するのかという問題があります。
この三つは、本来、分けて考える必要があります。
Q2 「日本が戦争をしないこと=平和」という考え方には、どんな問題がありますか?
「日本が戦争をしない」という考え方そのものに問題があるわけではありません。
問題は、「日本が戦争をしなければ平和になる」と考えてしまうことです。
日本が戦争を始めないことは、日本自身の意思で決めることができます。
しかし、相手国が日本に対して武力行使をするかどうかは、日本だけでは決められません。
だから、
「日本が戦争をしないこと」と「日本が戦争を仕掛けられないようにすること」は、同じではありません。
また、「戦争反対」という価値判断から、
「だから日本は防衛力を持つべきではない」
「だから日本政府に戦争をさせてはいけない」
「だから防衛力の強化は平和に反する」
という結論が自動的に導かれるわけでもありません。
それらは、歴史の問題とは別に、現在の日本の安全保障についてどう考えるかという政治的・政策的な判断なのです。
Q3 では、戦後の平和教育には、どのような問題があったのでしょうか?
ここは、私たち自身が一度、冷静に振り返ってみる価値があると思います。
学校で、
「戦争は悲惨だ」
「戦争によって多くの人が犠牲になった」
「日本もアジア・太平洋地域で戦争を行った」
と学ぶこと自体は、大切な歴史教育です。
しかし、その先に、
「大日本帝国時代の戦争=日本の侵略戦争」というある一つの歴史評価
と、
「だから平和を守るためには、日本が戦争をしないこと、日本政府に戦争をさせないことが最も重要だ」という現在の政治的・安全保障上の主張
が、
十分に区別されないまま結び付けられてこなかったか。
この点については、考えてみる必要があるのではないでしょうか。
もし、ある歴史評価から特定の安全保障政策までを一続きの「平和の教え」として受け取らせ、その政策について異なる考え方を検討することまで「平和に反する」とみなすなら、それは単なる歴史教育を超えています。
歴史をどう評価するかと、現在の日本の安全保障をどうするかは、本来、別々に議論されるべき問題なのです。
Q4 では、戦争の悲惨さを教えること自体が間違っていたのでしょうか?
もちろん、そうではありません。
戦争の悲惨さを知ることは、とても大切です。
原爆による被害、空襲、沖縄戦、戦地での犠牲、海外に取り残された民間人、そして戦後の引揚げや抑留――。
こうした歴史を知ることは、二度と同じ悲劇を繰り返さないために必要です。
ただし、
「戦争は悲惨だ」という事実から、「だから日本はこのような安全保障政策を採るべきだ」という結論が自動的に出てくるわけではありません。
そこには、もう一段階の思考があります。
その段階こそ、本来なら一人ひとりが自分で考え、議論すべきところではないでしょうか。
Q5 これからの平和教育には何が必要なのでしょうか?
私は、「戦争反対」を教えるだけではなく、「平和をどう守るのか」を考えさせる教育が必要だと思います。
例えば、こんな問いです。
「戦争はなぜ起きるのか。」
「なぜ外交だけでは戦争を防げない場合があるのか。」
「軍事力は戦争を起こす原因なのか、それとも戦争を防ぐためにも使われるのか。」
「一国だけが軍備を放棄した場合、どのような問題が起こり得るのか。」
「国際社会が侵略を止めるためには、どのような力が必要なのか。」
「同盟国に安全保障を依存することには、どのような責任が伴うのか。」
「戦争が始まってしまった場合、どうすれば国民を守りながら戦争を終わらせられるのか。」
こうした問いについて、賛成と反対の両方の意見を知り、自分自身で考える。
それこそが、成熟した民主社会における平和教育ではないでしょうか。
Q6 結局、戦後の平和教育をどう評価すればよいのでしょうか?
私は、戦後の平和教育がすべて間違っていた、と言いたいのではありません。
戦争の悲惨さを伝え、平和の大切さを教えてきたことには、大きな意味がありました。
ただ、その一方で、
「戦争をしないこと」と「平和を守ること」が、いつの間にか同じ意味で扱われてこなかったか。
そして、
「日本が戦争をしないこと、日本政府に戦争をさせないことこそが平和である」という一つの政治的・安全保障上の考え方が、「平和」という道徳的に否定しにくい言葉によって、十分な検討を経ないまま正当化され、絶対視されてこなかったか。
この点については、私たちは一度、冷静に振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。
歴史をどう評価するか。
平和をどう考えるか。
そして、日本の安全保障をどう設計するか。
これは、それぞれ別の問題です。
過去の戦争についてどのような歴史評価を持つかと、現在の日本の安全保障政策についてどのような結論を選ぶかは、同じではありません。
平和教育が本当に「平和のための教育」であるならば、特定の結論を覚えさせることではなく、「平和とは何か」「平和を守るには何が必要なのか」を自分自身で考える力を育てることこそが大切なのではないでしょうか。
「戦争反対」という言葉を大切にしながらも、
「では、どうすれば戦争を起こさせないのか」
「もし戦争を仕掛けられたら、どうやって国民を守るのか」
「どうすれば戦争を拡大させず、終わらせることができるのか」
――そこまで考える。
それは、「戦争賛成」でも「軍国主義」でもありません。
戦争を知らない世代が、戦争を起こさないためにこそ、戦争について現実的に考える。
私は、それもまた、これからの日本に必要な「平和教育」なのだと思います。
